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吉田秀和のこと [poem]


 吉田秀和の文章を読んでいると、自分は音楽の持つ感動よりもはるかに文章の持つそれを深く感じることに適応した人間なのではないかということを思う。吉田秀和には非常に皮肉な結果なのか、それが彼の本当の仕事であるのか。
 自分は音楽にその生活の時間のほとんどを費やしている人間で、残念なことに仕事の時間を除いてという前提があるのだが。しかしその時間には寝る時間も含まれているアマチュアである。今日の前半はロマン派のベルカント的な歌い方で、ある曲を演奏するにはどうするべきかということを考え、練習し、後半はジャッキーマクリーンが2-5で使うバップフレーズはパターンがあり、完全な手癖なのだが、どうすれば効果的に再現出来るかということを考え、練習して過ごした次第である。
 それでも一日の最後に吉田氏の文章を読むと、自分が読むことで、より感動する人間であることを(疑問を持ちながらも)追認するしかないのだ。
 日本のプロの音楽家、少なくとも演奏家は(おそらく30歳以前は)文盲なのではないだろうか(失礼)。そうでなくては成功しないだろう。海外の演奏家には数学の博士号を持っているフルーティスト、それもウィーンフィルの首席で団長だったりする人もいるが、日本ではかなり特殊だろう。(ため息が出る)。だから日本の多くの演奏家は技術的なピークと思想的な円熟がかなりずれるのではないかとおもう。最近、ある非常に有能な若手演奏家のコンサートにいったのだが、そこで彼女は『鳥の歌』をとても感動的に演奏した。あの曲のもっていた固定観念を突き抜けたのではないかという感想さえ持った。トークを交えたその演奏会で、彼女は演奏後、曲の解説をはじめたのだが、「この曲はプログラムにはカザルスと書いてありますが、じつはカザルスが作ったのではなく、えーとたしかどこかの民謡です!」こう言ったのだ。耳を疑った。彼女は、自分は曲の成り立ちなど関係なく、絶対音楽としてこの曲を演奏したのだ、と暗黙に主張しているのだ、と自分を納得させようとしたがだめだった。「カタロニアの鳥はピース、ピースといって飛ぶ・・」というようなことを言わないであの曲が演奏できるほど人類の歴史は成熟していないのだ。日本でもっとも有名な音楽大学の大学院まで修めた彼女は吉田秀和を読んでいないだろう。教養の時間に出てきた変なお爺さん、というような状況があり得るのかどうか知らないけれども、そういう存在程度に彼を知っている可能性はあるかな。
 と話はなかなか吉田秀和のことにならないのだけれど、こう書いてきて、また自分は演奏するよりも、文章表現の方が、まだ向いているのではないかと思っていしまうのだ。吉田秀和氏は凡人に演奏をあきらめさせるために本を書いているのか?
 本当は今日書きたかったのは、吉田秀和は音楽家だ、ということだったのだが・・・。ながくなったので続く


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kazunari

コメントとトラックバックありがとうございました。コメント欄のみの表示で、お手数お掛けしました。
こちらにコメントさせていただくのは久しぶりになってしまいました。先日、読ませていただいたのですが、吉田秀和さんをよく知っているわけでもないし、、と思っていたら吉田秀和・編訳の「モ-ツァルトの手紙」が本棚にあることを忘れていました。まだまだ勉強が足りないようです。
by kazunari (2007-08-10 23:48) 

ゆき

吉田秀和の文章は、本当にすごいです。音楽よりもさらに深い感動を呼び起こされる、と私も感じます。吉田秀和の文を読むと、活字というのはやはりものすごい力を持っているものだと思わざるを得ません。
by ゆき (2007-08-11 19:13) 

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