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聞く耳を持たなくなってしまった・・・・。 [poem]

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 鳩山就任の「命を守りたい」にものけぞったが(いい意味でね)、「国民のみなさんが徐々に徐々に聞く耳を持たなくなってしまった・・・」という辞任の会見での発言を聴いたとき、かなりのけぞったぞ。言葉にはこだわるこのブログとしては。
 麻生がいみじくも「俺だったらすごく叩かれていた・・・」と感想をもらしていたが、ヤツの場合、日本語の使い方が間違っているということでバカにされていた可能性のほうが高い。鳩山の場合、わたしゃ確信犯とニラんでいる。
 「聞く耳を持たない」という情況は学校の先生ならいやと言うほど味わうもので、アホな生徒に「それはいじめだからやめろ」といくら説明しても理解しないとか、暴力で物事を解決してはいけないと説得しても暴れないではいられないツッパリとか、ほとんど教師のトラウマになるくらい日常的なことだ。わたしもこれで教師を辞めたと言っても過言ではない。
 つまり、「聞く耳持たない」は、こちらが正当な行動や言動をしているにもかかわらずそれを納得しないバカ者を批判する言葉でありますね。
 それを民主国家の首相が最後ッ屁のように辞任に際して言うのはいかがなものか。批判は少しはあったらしいが、あまり国民にはこの最後ッ屁は利かなかったらしいのだ。
 それもそのはず、聞く耳を持たないという情況はかなり正確に国民の行動を言い当てていたので、当事者(国民)に比較的すんなり受け入れられたのだと思うのだ。たとえば内閣支持率、こんな数字はさしたる理由や批判材料もなく「聞く耳」のあるなしでかなりデジタルに、二進法的に出てくるに決まっている。おまけにマスコミの発問もかなり恣意的、誘導的だし、報道の仕方も非常に作為的だ。加えて歴代の自民党内閣の官房機密費から金500万円也のお手当をもらわなかったのは野中広務によれば「田原総一郎」と「朝日新聞」だけだったという。このことに関してはマスコミ界、ジャーナリズム界に対して「米トヨタ問題」並の批判があってもよさそうなのに、今のところ何も起こらない。朝日もたいした新聞じゃないけど、良識のある国民なら朝日以外の新聞の不買運動くらいすればいいと思うけど。鳩山、小沢の金権体質などよく批判できたものだ。毎日など「政治家に理想はいらない」とまで言っている。だったら新聞は要らない。週刊ポストとか週刊現代で十分だ。
 さて普天間問題。これが鳩山の命取りになったのはまちがいない。しかし(とくに沖縄の人たちが)鳩山を「ウソつき」「詐欺」よばわりするのは正確だろうか。ヤツは当初、本当に県外、国外を実現するつもりだったのは間違いない。結婚詐欺というのがあるが、これは初めからだますつもりのことが多いだろう。しかし固い決意があって、でも周囲の反対や経済的理由で結婚できないという場合「詐欺」よばわりはしないだろう。反対されればさらに炎は燃え上がり駆け落ちなりするものだ。断念するにしてもそれは悲恋でありウソつきではないだろう。腐った日米関係と一部金権、利権が戦後営々と続いてきた沖縄基地がそう易々と変えられる訳がない。そうして大多数の国民のポピュリズム。この普天間→辺野古の選択は実は国民の選択だろう。多少の経済的不安定よりも基地の撤退を選択する日本人がどれくらいいるのか。中国や朝鮮半島の国と共存関係を築くより基地があった方が安心、そのためにはやっぱり基地は沖縄でしょう、これが(大多数の)日本人の本音だろう。100年はおろか10年後のことさえ考えていないこのバカ民主主義国家。
 自民党は終始、沖縄県民に期待を持たせたことを批判していた。これはほとんど差別的といっていいだろう。沖縄の人々は基地のない情況の期待すらするなというのか。くさい物は沖縄に確かに存在するのだ。鳩山はそのふたを開けてニオイを日本中にまき散らしてしまった。ニオイすらいやだというのに実際に基地がある沖縄はどうすればいいのだ。その答えが自民党には永久に出せない。それに事業仕分け、沖縄返還の密約問題、官房機密費問題、その他自民党では絶対あり得なかったことが少なくとも政権交代で成し遂げられたのは間違いない。その自民党をまた選ぶ奴がたくさんいるとしたらこんな国はもうどうなってもいい。その国民のレベルの政治しか持てないのは古代から自明だ。
 社民党は(どうせ泣くなら)やはり泣きながらでも署名をして将来の基地撤去への期待をつなぐべきだったのではないか。政権離脱と新総裁の路線踏襲で一層辺野古が既成事実化してしまった。どうせ議席なんか無いんだからもうちょっとがんばればよかったのに。共産党はオバマに面会して有頂天になっていたが基地問題で少しでも鳩山を援護射撃したのかあ?。ただただ失脚を喜んで手柄顔しているようにしか見えないが。
 さて菅直人。「市民運動から総理大臣」はこの国では小学校卒の首相より画期的だろう。ただしあの市川房枝の書生だったときの抜群のさわやかさはない。厚生大臣で薬害エイズを暴いたときの鋭さもない。でも最後の期待を寄せている。あまりイライラしないでやってほしいものだ。
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 PS. 言い足りないことがあった。この男は自分が勤務の実態のない会社の社員だったとき年金未払いの問題で「人生色々、会社も色々」なんていって国民をバカにした。それから「公約を守らなくたってたいしたことはない」と平気で言った首相である。それでも国民は聞く耳を持っていた。まるでロバの耳なのか馬の耳並か、日本人の耳は。マンマとこやつは郵便事業の利権をアメリカにタダでくれてやろうとした。
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鳩山由紀夫の演説 [poem]

 鳩山由紀夫が施政方針演説を行った。自民党政権時代、見る機会も動機も興味もなかったし、偶然見てもすぐにチャンネルを変えたと思う。理由は心にもない嘘や賛同できない主旨にすぐにぶつかることもさることながら、官僚的な意味不明の言葉がすぐ出てくるからだ。しかし今回、50分間フルに見てしまった。自分の人生の50分間も!!。
 この演説の内容に共産党、自民党その他野党はきびしい評価をしている。
 しかし50分間、すべて理解可能な日本語で彼は語った。政治家としての評価は必ずしもこのこととは別なのだろう。むしろ一般人に理解できるようなボキャブラリーで政治を述べては失格なのかもしれない。しかし宇宙人のくせに、鳩山由紀夫は自分に理解可能な言葉を使って50分間、理解可能なメッセージを発信し続けたのだ。マスメディアもこのことにふれていないのだが、これだけでももしかしたら鳩山由紀夫はけっこうたいした首相なのではないか。
 「アメリカが世界で2番目なんていやなんだよー」ってだだをこねて見せて拍手喝采のオバマの一般教書とアメリカ議会より、「世界中の命を守りたい」「生物の多様性を守りたい」「今までの成長ではだめなんだ」「ガンジーは労働無き富は悪だと言った」。これらは明らかに光を放っているでしょ。ママからの労働無き富もふまえて真面目に言っているんだから。
 少なくとも鳩山は真面目だった。「仕事も色々」とか「公約なんか守らなくてもたいしたことじゃない」っていってのけたバカとは違うとおもう。
 実はここのところの予算委員会、つぶさに見た(これも自分には椿事だが)。マスコミのヤジ批判や答弁拒否批判は全くでたらめである。自民党の質問が全くなっていない。亀井(きらいなんだけどね)が「そんなくだらないこと答えられるか」といったのは当然だ。中学校の生徒総会の給食委員会への質問だって最近はもっとマシだ。読売の「国会崩壊」記事には全くあきれた。崩壊しているのは自民党(特に丸山珠代)だ。ワイドショーの奴らも全く国会なんか見ていないのがよくわかる。だいたい新聞記事をテレヴィのニュース(娯楽番組だが)で読み上げて真実を報道しているかのように振る舞うのはもうやめろ。
 産経新聞に至っては首相への自民党のヤジは「意気盛ん」で「当意即妙」と褒めちぎっている。「マナー最悪」とはかいてあるが、これも褒めているつもりなんだろう。特に「元気で最後までうるさかった」のは武部と伊吹と村上だったそうだ。あきれたものだ。
 真面目な男にはヤジはふさわしくないのに。
 まだ書くことあるので続くかもしれない。
元気なヤジオヤジ達
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産経新聞選によるヤジ集
 首相が演壇に立ち、「いのちを守りたい…」と異例のフレーズから演説を始めると、自民党席からはいっせいにヤジが飛んだ。「税金払えよー」。
 その後も首相がひとこと言うたびに、「(日本が)国際社会から信頼され…」→「信頼されてない」
▽「教育と科学に大きな資源を振り向け…」→「日教組!」
▽「鳩山内閣における『成長』は従来型の規模の成長を意味しません」→「成長しろー」と応酬が続いた。首相が外国文化を受容してきた日本の特性に触れると、「宇宙人は入ってないぞ」とも。
 むすびで首相が再び「いのちを守りたい」と訴えると、「まず約束を守れ」「守りたいのは政治生命 じゃないか」と、最後までうるさかった。

血まつり [poem]

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普段使いたくない言葉だし、聞きたもくない。でも最近この人が妙に使うのでいやになっているんだけれど。
200px-Sadakazu_tanigaki-02.jpgWikipedeiaより
 自民党の言語感覚というのは異常になっているのか。それとも自分の感覚が世の中に追いついていないのだろうか。
 八ッ場ダムの建設中止の批判で必ずつかうんですね「血まつり」。ダムを山奥の谷に造る方が圧倒的に血まつりという感覚に近い。建設をやめても利権で経済的に困窮する土建屋や補償金を老後のあてにしていた人とかが困るかもしれないが血は見ないと思うのだよね。建設中止の補償は当然行われるのだから個人的損失は心配ないと思うけど。
 これを血まつりというなら、自民党がこれまで与党としてやってきた沖縄や池子の基地問題や高速建設、それから「成田」はなんだったのか。これこそ「血まつり」でしょう。
 小役人面とかそういうことを言うのはやめよう。この人こそ自民党の野党転落の谷間にあてがわれた久々の血まつり総裁として自覚しているのかもしれないし。中国に行って買春したという報道は真偽はともかく「血まつり」だったのだし。自分で自転車で転んでけがしたときにテレビで血まつりって言って、それはお笑いにはなるけどさ。
 民主党の危うさはそりゃあります。叩くときは叩かなきゃとは思うけど、こんなこと言っているようじゃ当分自民党の出番はないよ。選挙の時の不評だったネガティブキャンペーンをいまだにやっているようだ。
 とにかくダムを造らなくてすむようになったことを血まつりというのだけはやめろよ。詩的じゃない。『もののけ姫』でも観て勉強しろ。

障害者の害は害虫の害か 詩人に訊け! [poem]

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 障害者ではなく障碍者と書くべきだという主張を読んだ。実際、漢字使用外国圏ではそういう事が進んでいるということも書いてあった。理由は障害者の害は害虫の害の字と同じだからなのだそうだ。そういえば運動会の障害物競走という名称もよくないなんて言う人もいた。「碍」という字はなんだか懐かしい。昔、電柱の上についていた絶縁陶器を碍子といっており、当然のように周りの大人は使っていたが、碍という字の意味はわからなかった。広辞苑によれば「碍」とは妨げる物という意味があり、やはり絶縁体の意味で使っていたようだ。しかし障害者の害って害虫と同じ字だが、害虫というような意味まで包含しているだろうか。ましてや障害者が社会の害虫だというような意識を持っている人などいるのだろうか。そういう人がいるとしたら、それはその人の感覚に問題があると思わざるを得ない。もっとも障害を持つ人がそう感じているならば、話はもう少し複雑になるけれども。
 むしろ障害者という意味をあえて冷静に考えるなら、ふつう(筆者はこう思う)は、「社会の構造が人間へ顕在、潜在的に害をあたえる要素を持っていて、その被害を比較的被りやすい人」という意味だと思うのだが。
 またはこの言葉をはじめて学習し、知った子供が先入観としてそういうニュアンスをうけやすいとでもいうのだろうか。そんなことはあるまい。そう考えるとしたらそれは子供のことを知らなすぎる。子供の言語感覚はかなり白紙に近いものだ。害という言葉が自動的に差別を助長すると思う人は、人の生得の残酷さや愛を、子供の無垢な残酷さや愛を知らないのだ。彼らは異質な物を(残念ながら)恐れ、排除しようとする事が多い(本能か社会的刷り込みか)。そしてそれを反省し克服する可能性も持っている。害という意味を短絡的に害虫の意味に結びつけ、問題だと感じる人は、それを乗り越えていく人間の可能性にも盲いている可能性がある。
 世の中に差別語が増えていて、新しい言葉を作るということが多くなっている。精神分裂病が統合失調症という言葉におきかえられたようであるが、統合というものを失調するという意味はすごくネガティブなのではないだろうか。この言葉も早晩差別的だということになるのは目に見えている。言葉が差別的なのではなく、社会に差別がある限り言葉は差別を内部に増殖していく運命にあるのだ。
 メクラという言葉がダメということになり(おかげで勝新の『座頭市』なんか全然テレヴィでやらなくなった)目の不自由な人なんて言っていたことがあった。この「不自由」なんていう言葉はネガティブそのものではないか。自由を否定しているのだから。「自由にあらずんば死を」というのはハリウッド的なバカヤンキーがむかし唱えていた主張であり、今も国民皆保険に反対しているアメリカ保守主義者どもはこう思っているにちがいない。メクラを社会主義者や共産主義者と一緒くたにしたらメクラに失礼というものだろう。(この言い回しの場合、どっちをより貶めているのかわからなくなっちゃったぞ。)自分も働いていたとき「先生」といわれて蔑まれていたことがあった(とくにジャズ関係者に)。親や子供に教師を蔑むようにし向けたのは明らかに戦後の政権(特に自公連立政権)や文部省以下教育委員会だ。言葉なんて「先生と呼ばれるほどのバカじゃなし」ということばがいみじくも示すように社会が意味を与えるものなのだ。
 だいたい病気の名前はネガティブである。風邪の「邪」なんて邪悪そのものだ。しかし風邪をひいた者が差別されないのは予後が順調と見込まれるからなのだろう。しかし「癌」という現代に於いてもいまだ深刻な病名に対し、反社会的な行為者を「社会の癌だ」なんて表現する者が(為政者に多いと思うが)いるというのは、思いやるべき癌患者に対して絶望的な事実ではないか。
 少し前になるが男性器には親しみやすい俗称があるけれども、女性器にはそれに相当するものが無く、旧来の名称が陰湿で性教育でも使いにくいというので、ある女性教育学者が(どう見ても言語感覚やセンスが不自由な人に思えたが)「オパンポン」と呼びましょうと提案したことがあった。こんな文字通り語感的に噴飯ものの名称が定着しなくてよかったが、女性に対する差別と性行為にたいする後ろめたさがある以上、オパンポンも隠微で差別的になっていかざるをえないのだ。オパ●ポ●。バカである。
 くどいが、精神疾患を持つ人を、たとえば「幸福者」と名付けたところで結果は同じなのだ。痴呆症が認知症になったって同じこと。そこで結論だが、言葉に反映してしまう差別意識が無くなるためには社会と個人の成熟を待つしかないのだ。それを果たすのが文学(この場合文学には科学も含まれている)の仕事だろう。小役人ごとき者が小手先で言葉(の文化)をいじるなんてことは無用だ。もしこのことを扱うとすれば、適任なのは言葉を扱うことを生業とする「詩人」という職業の人しかいないだろう。できたらカタワでメクラまたはチンバまたはツンボまたはハゲの詩人に訊くべきだとおもうのである。
(あえて現在差別的とされている言葉を使用したのは言うまでもない。それから私は比較的に社会主義者や共産主義者のシンパなのだ)
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文化について [poem]

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 文化の日で祭日であったということもようやく昼頃ぼんやりと思い当たるというようなこの頃である。
「文化」というこのあまりに一般的な言葉には、それでも若い頃から触発される日々をおくってきたと思っている。上の本は坂崎乙郎氏の『絵とは何か』であるが、子供といってもよいほどに若い頃、氏の『イメージの狩人』という本に出会ったのは偶然であろうか。今は手元になく、誰か友人の所に行きっぱなしになっている。「こんなに絵を深読みしてもいいの?、というよりこれは創作じゃない!」というのがそのときの衝撃的感想だったのだが、内容は非常にきびしく難解な美術論文である。実際、この本が人の生き方と文化や文明について深く考えるようになったきっかけではないかと自分には思える。
 今の自分の現実は、厳しさとは対極の「音楽を演奏したり、聴いたり」というようなゆるい日々ではあるが、いま町へ出たり(ほとんど無いが)テレヴィなどを見てみると、人生をなめているというか、人としての「核」がないような、そんな文化の廃れた様子を感じてしまうのは自分も年を取り老人病にかかっただけなのだろうか。
 上記の『絵とは何か』で坂崎氏は、A・カミュが「自分にとって書くということは自分が自分の自由の立場を守るということで、国家の褒賞であろうとも受けてはならない」といっていることを紹介し、たとえばドゴール大統領が自分に「キジ」を送ってきたとき、受け取った奥さんを烈火のごとくに怒ったなんていうエピソードを紹介している。また坂崎氏は、日本で本当の芸術が育つためには天皇制というものが一番の問題で、そのためには教育界からなにから全部改革しなければならない。それは21世紀になっても当分実現しないだろうという事も書いている。そしてこの11月3日のことを日本人のあらゆる人が賞をもらう日で、極端な話、おまんじゅうを作り続けるのは国家のためになってしまっていることを(日本人は)誰も不思議に思っていない事になってしまうと書いている。その段落の最後を抜き書きさせてもらうと・・・
「けれどもこの考えも、いま1976年という時点で、おそらく変わっていくだろうと私は思っています。40歳以上の人は信用できないけれど、これからの若い世代は、こういう図式を信じないでしょう」。と書いている。
 この9年後、1985年に彼は世を去っている。その間何を感じたことだろう。
 今日、テレヴィを見ていたら川端康成の映像が映っていて、隣に三島由紀夫もいて、初めて見るものだったので思わず身を乗り出してしまったのだが、ノーベル賞をもらった彼は三島ともども俗物そのものだった。
 サルトルはノーベル賞を拒否したが、先に書いたカミュは確か1950年代にさっさともらっている。どうも今、カミュの方が少しは読み継がれているという点で歩がありそうだ。
 サルトルをその目標とも据えていた大江健三郎は『新しい人よ・・』のあたりを境につまらなくなり、文化勲章は辞退したものの、欲しかったノーベル賞をもらってからはやることなすこと堕落としか言いようがない。
 もっとも皇室に関しては良くも悪くも日本の象徴としてある意味好感さえ持つ今日この頃であります。一方の受賞者達には「文化勲章なんて棚からマグロ!」なんていうコメントのしようがないようなことを言うお調子者(中島某)もいて、「地上の星」たちも案外自分のしたいことをして、「くれるものはもらっておこう」的な考えなのだろうとはおもうが。
 もともと『絵とは何か』という本はゴッホの人生について多くのページが割かれているのだが、ゴッホの人生が真実の人生だったらそれはつらいものだ。もっとも我々凡百には無理だが。
 坂崎先生、40歳以下の人々もちゃっかりジョン・レノン達が女王陛下に勲章をもらっているのを知っている世代なんですよ。
 そして、性急な結論だが、どうも文化は確実に滅びる方向へと世界は向かっているらしい、と一気に確信してしまう今年の文化の日も、いま終わろうとしている。

Here comes the sun [poem]

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 やうこうきたり            ジョージ・ハリスン

陽光来たり
陽光来たり
よきかな

我ぎ妹子よ
去年の冬のいと長くわびしく寒きこと
我ぎ妹子よ
長き年月陽の隠れていたるごとし

陽光来たり
陽光来たり
よきかな

我ぎ妹子よ
人々の再び微笑むこと
長き年月陽の隠れていたるごとし

陽光来たり
陽光来たり
よきかな

陽光 やうこう 陽光 来たり

我ぎ妹子よ
氷のいと緩やかに融けていく想い
長き年月陽の隠れていたるごとし

陽光来たり
陽光来たり
よきかな

(クラプトンが庵にて詠める)

もっと教養があれば漢文訓読体、または漢文で書きたかった。
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Because [poem]

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 なぜなら           レノン アンド マッカートニー

なぜなら 世界は丸いから
まいった
なぜなら 世界は丸い

なぜなら 風がつよいから
飛んでしまった
なぜなら 風がつよくて

愛は古い 愛は新しい
愛はすべて 愛はおまえ

なぜなら 空が青いので
泣けた
なぜなら 空が青い

いろいろ感じることの多い年の瀬であります。ビートルズに涙腺がゆるむ
でも、もうギターは弾かないつもりである

吉田秀和のこと [poem]


 吉田秀和の文章を読んでいると、自分は音楽の持つ感動よりもはるかに文章の持つそれを深く感じることに適応した人間なのではないかということを思う。吉田秀和には非常に皮肉な結果なのか、それが彼の本当の仕事であるのか。
 自分は音楽にその生活の時間のほとんどを費やしている人間で、残念なことに仕事の時間を除いてという前提があるのだが。しかしその時間には寝る時間も含まれているアマチュアである。今日の前半はロマン派のベルカント的な歌い方で、ある曲を演奏するにはどうするべきかということを考え、練習し、後半はジャッキーマクリーンが2-5で使うバップフレーズはパターンがあり、完全な手癖なのだが、どうすれば効果的に再現出来るかということを考え、練習して過ごした次第である。
 それでも一日の最後に吉田氏の文章を読むと、自分が読むことで、より感動する人間であることを(疑問を持ちながらも)追認するしかないのだ。
 日本のプロの音楽家、少なくとも演奏家は(おそらく30歳以前は)文盲なのではないだろうか(失礼)。そうでなくては成功しないだろう。海外の演奏家には数学の博士号を持っているフルーティスト、それもウィーンフィルの首席で団長だったりする人もいるが、日本ではかなり特殊だろう。(ため息が出る)。だから日本の多くの演奏家は技術的なピークと思想的な円熟がかなりずれるのではないかとおもう。最近、ある非常に有能な若手演奏家のコンサートにいったのだが、そこで彼女は『鳥の歌』をとても感動的に演奏した。あの曲のもっていた固定観念を突き抜けたのではないかという感想さえ持った。トークを交えたその演奏会で、彼女は演奏後、曲の解説をはじめたのだが、「この曲はプログラムにはカザルスと書いてありますが、じつはカザルスが作ったのではなく、えーとたしかどこかの民謡です!」こう言ったのだ。耳を疑った。彼女は、自分は曲の成り立ちなど関係なく、絶対音楽としてこの曲を演奏したのだ、と暗黙に主張しているのだ、と自分を納得させようとしたがだめだった。「カタロニアの鳥はピース、ピースといって飛ぶ・・」というようなことを言わないであの曲が演奏できるほど人類の歴史は成熟していないのだ。日本でもっとも有名な音楽大学の大学院まで修めた彼女は吉田秀和を読んでいないだろう。教養の時間に出てきた変なお爺さん、というような状況があり得るのかどうか知らないけれども、そういう存在程度に彼を知っている可能性はあるかな。
 と話はなかなか吉田秀和のことにならないのだけれど、こう書いてきて、また自分は演奏するよりも、文章表現の方が、まだ向いているのではないかと思っていしまうのだ。吉田秀和氏は凡人に演奏をあきらめさせるために本を書いているのか?
 本当は今日書きたかったのは、吉田秀和は音楽家だ、ということだったのだが・・・。ながくなったので続く


小熊秀雄 [poem]


 小熊秀雄の詩が入るときと入らないときがある。それはあまり体調とか気分と関係ないように思われる。何も読むべき物がないと感じられるとき、本棚で手に取りページを開くと、とても明晰に言葉が伝わり、入り込めるときと、全然受け入れないときがあるのだが、その結果が想定できないのだ。疲れていても元気でも、落ち込んでいても高揚していても入るときには入るし、ダメなときはだめ。教科書を読むように丁寧に解釈すればいいのだろうけれど。いつもお勉強というわけにはいかないから。なぜかジャズの演奏と似ている。よれよれの時にフレーズが冴えたり、明日から休みで元気もりもりのときに練習したようなつまらないことしかできなかったりすることがよくある。
 恥ずかしながらこの詩人もアーサービナード氏にある紙面で紹介されてきちんと知ったのだけれど。今、これほど時代にフィットする詩人は思いつかない。
 彼は逃亡と怠惰を糾弾し、愛と闘争を肯定し、文学の自立をさけんでインテリを鼓舞する。そういえばこれほど知的であることや、学問する者たちが貶められ、無視された時代があっただろうか。マニュアルを作り、あとは考えずに行動することだけで成り立っている社会。これではまるで戦前ではないか。


真に労働としての
智識の行動化のために
もっとも完全なインテリ的であれ
真綿でくるんだ
君の心臓に風邪をひかせろ
歯をもって雷管を噛め、
そして思想を爆発させろ
『君の心臓に風邪をひかせろ』小熊秀雄詩集より

今日はすーっと入ってきたのでおすそわけ。


顔を洗って出直してこい『ここが家だ』(ベン・シャーン-アーサービナード) [poem]


ここに描かれている第五福竜丸の乗組員への著者2人の温かくも敬意に満ちた視線、核兵器への憎しみ、世界へ伝えようとする悲しみは言葉にできない。特にアーサー・ビナードの前で我々はいろいろな意味で言葉を失う。それを彼は許さないのだが・・・・。
彼らは4たび我々に、世界に問いかける。核の存在を許すのか?と。
引用することしかできない。
「この物語が忘れられるの
    をじっと待っている
         人たちがいる」
リトアニア生まれのアメリカ美術の巨匠と、
アメリカ生まれの日本語詩人が
歴史の流れを変えた日本人の漁師23人と
いっしょに乗り組んで、海に出る。

『ここが家だ』より

一家に一冊常備されたし


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