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文化について [poem]

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 文化の日で祭日であったということもようやく昼頃ぼんやりと思い当たるというようなこの頃である。
「文化」というこのあまりに一般的な言葉には、それでも若い頃から触発される日々をおくってきたと思っている。上の本は坂崎乙郎氏の『絵とは何か』であるが、子供といってもよいほどに若い頃、氏の『イメージの狩人』という本に出会ったのは偶然であろうか。今は手元になく、誰か友人の所に行きっぱなしになっている。「こんなに絵を深読みしてもいいの?、というよりこれは創作じゃない!」というのがそのときの衝撃的感想だったのだが、内容は非常にきびしく難解な美術論文である。実際、この本が人の生き方と文化や文明について深く考えるようになったきっかけではないかと自分には思える。
 今の自分の現実は、厳しさとは対極の「音楽を演奏したり、聴いたり」というようなゆるい日々ではあるが、いま町へ出たり(ほとんど無いが)テレヴィなどを見てみると、人生をなめているというか、人としての「核」がないような、そんな文化の廃れた様子を感じてしまうのは自分も年を取り老人病にかかっただけなのだろうか。
 上記の『絵とは何か』で坂崎氏は、A・カミュが「自分にとって書くということは自分が自分の自由の立場を守るということで、国家の褒賞であろうとも受けてはならない」といっていることを紹介し、たとえばドゴール大統領が自分に「キジ」を送ってきたとき、受け取った奥さんを烈火のごとくに怒ったなんていうエピソードを紹介している。また坂崎氏は、日本で本当の芸術が育つためには天皇制というものが一番の問題で、そのためには教育界からなにから全部改革しなければならない。それは21世紀になっても当分実現しないだろうという事も書いている。そしてこの11月3日のことを日本人のあらゆる人が賞をもらう日で、極端な話、おまんじゅうを作り続けるのは国家のためになってしまっていることを(日本人は)誰も不思議に思っていない事になってしまうと書いている。その段落の最後を抜き書きさせてもらうと・・・
「けれどもこの考えも、いま1976年という時点で、おそらく変わっていくだろうと私は思っています。40歳以上の人は信用できないけれど、これからの若い世代は、こういう図式を信じないでしょう」。と書いている。
 この9年後、1985年に彼は世を去っている。その間何を感じたことだろう。
 今日、テレヴィを見ていたら川端康成の映像が映っていて、隣に三島由紀夫もいて、初めて見るものだったので思わず身を乗り出してしまったのだが、ノーベル賞をもらった彼は三島ともども俗物そのものだった。
 サルトルはノーベル賞を拒否したが、先に書いたカミュは確か1950年代にさっさともらっている。どうも今、カミュの方が少しは読み継がれているという点で歩がありそうだ。
 サルトルをその目標とも据えていた大江健三郎は『新しい人よ・・』のあたりを境につまらなくなり、文化勲章は辞退したものの、欲しかったノーベル賞をもらってからはやることなすこと堕落としか言いようがない。
 もっとも皇室に関しては良くも悪くも日本の象徴としてある意味好感さえ持つ今日この頃であります。一方の受賞者達には「文化勲章なんて棚からマグロ!」なんていうコメントのしようがないようなことを言うお調子者(中島某)もいて、「地上の星」たちも案外自分のしたいことをして、「くれるものはもらっておこう」的な考えなのだろうとはおもうが。
 もともと『絵とは何か』という本はゴッホの人生について多くのページが割かれているのだが、ゴッホの人生が真実の人生だったらそれはつらいものだ。もっとも我々凡百には無理だが。
 坂崎先生、40歳以下の人々もちゃっかりジョン・レノン達が女王陛下に勲章をもらっているのを知っている世代なんですよ。
 そして、性急な結論だが、どうも文化は確実に滅びる方向へと世界は向かっているらしい、と一気に確信してしまう今年の文化の日も、いま終わろうとしている。
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