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「新しい歌」 城山羊の会 公演 [演劇]

 山内ケンジ作「新しい歌」を観た。表現者として一貫して冷徹でしかも無邪気な好奇心あふれる視点をもって人の感情や行動、現実社会への問題提起を行う彼にいつも感心する。それはあたかも自閉しているジャズトランペッターが、自分を含む外界を第三者としておもしろがって見つめるようなもので、矛盾であり不条理であり、また奇跡のようなものでもあるのだ。彼の演奏する音楽とよく似ている。
 学生の頃、よく読んだ羽仁五郎の「あらゆるセンチメンタリズムからの脱却」という考え方や行動にとても影響されたのだが、いつも山内ケンジの劇を見ると、このことを思い出す。そして見る側もセンチメンタリズムを排除して観るべきだと思うのだが、現実にはなかなかそうもいかない。
 決して劇に詳しい訳ではなく、ロイヤルシェークスピアとアヌイとジロドゥとあとは山内ケンジの作品という極端で少ない観劇経験しか持っていない事を言い訳にしながら語っているのだが、山内ケンジの作品の場合、とにかく始まったらいったん丸ごと受け入れてしまうしかないのでそれは疲れる。「笑い」に於いても観る者は(自分だけかも)発散できず内省してしまう。彼の劇は観る者に自己または近しい他者の現象をいつも不断に投影することを強いる「投影劇」(こういう言葉があるのかは知らない)という特質が非常に強い。登場人物の特定の誰にも自己同一化や主役としての共感を持つことはさせないのだが、逆に出演者全員に、いちいち自己やその身の回りを投影しながら観ざるを得ないところがあるのだ。これは疲労と消沈を伴うのだが、その場にいるものは特有のアンガージュマンを共有することができる。これが毎回足を運んでしまう山内劇の醍醐味なのかもしれない。
 今回も結末はほとんど全く救いようのない絶望なのだが、それだけではなく、私には私的でリアリティーのある一縷の希望を見いだせた。彼の意図するところなのかどうかはわからないが。
 大きな喪失から始まった彼の途方に暮れた新しい歌に敬意を表し、また次作を期待するものである。

 追伸。いったん耳につくと音楽が鳴りやまないたちなのだが、劇が終わった帰途、悩まずにすんだ。ところが今日、仕事をしていてとてもストレスフルな場面で聞こえてきてしまった。♪アタラシイ ウタヲ ウタオウ♪・・・・・・つらいっす。

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