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E-Pin企画10周年記念公演+城山羊の会 『イーピン光線』作・演出:山内ケンジ [演劇]

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 2月14日 下北沢 駅前劇場
 昼下がりにテレヴィを見ることがある(その時間帯以外にテレヴィをつけることはまず無い。お笑いやワイドショーにたやすく侵されてしまうからだ)。候補は放送大学の「宇宙物理」、NHK教育、高校講座「世界史」(今日のアメリカ合衆国はおもしろかった)それからテレビ朝日の刑事ものの再放送である。まあこの刑事物だが、テレヴィ番組のなかでは比較的良心的でヒューマニズムがありオジサン、オバサンで見ている人は多いのではないかと思う。なかでも『相棒』が一番人気なのは想像に難くない。
 それでもって刑事物といえば未成年者略取誘拐ですが、誘拐事件のプロットをしっかり逸脱して、それにつっこみを入れる間もなく劇は進んでいった。それは山内ケンジが小賢しいおじさん達の考えるヒューマニズムをあざけり笑っているようであり、そして所詮マスコミがキャピュタリズムの端末装置であり、良心のかけらもないことを高らかに宣言しているようでもあった。
 それで進行している誘拐事件が誰かの病的な妄想であることが次第に明確になっていくのであるが、今回の劇も現代の病理をよく観察し、おもしろがって、劇場という空間に誇張して構築していくという手法が手際よく構成されていた。
 ワールドワイドなはずのネットが実は非常にローカルに機能しているということ。主婦達のコミュニティが見えないネットコミュニケーションの中で埋没しているという現実。ローカルな現象である犯罪が分断された関係の中で変質し凶悪化する可能性が高いこと。ネット社会で個々が持っているアウトプットは安易であるが非常に危うく、アウトプットを持たない場合、もっと危険で、自己を浸食していくということ。持たざる者が病んでしまう現代。現実の中でまともに生きるには病んでしまうしかないのだろうか。一番罪のないように見えたあかねさん夫婦がもっとも病んでいるという設定もおなじみだった。
 妄想の中に登場してくる一見正常な人々は実は微妙にゆがんでいてリアリティーが希薄で、この劇では「妄想」にだけ唯一リアリティーが存在するように描かれているのも秀逸であった。
 そもそも妄想と現実にどのような違いがあるのか。夢とうつつにどのような本質的違いがあるのかというのはギリシャ哲学でも儒学思想でも主題となってきたことである。
 以前も山内劇が観劇者の参加を強いる性格が強いことを指摘したことがあるが、今回の
『イーピン光線』では会場全体が虚構の主体であるかのようだった。観客たちが虚無の中にいる自身を演じているようでそれは恐ろしかった。そして劇の終わりに近づくにつれて本当に現実感が妄想の主体であるあかねさん(と黒川刑事の悲しみ)にだけ収束していき、見終わった後もそれは持続するのであった。それは今も自分の中で真実として持続している。これこそが山内ケンジの最近の成果なのだろう。このことはこの劇をよく理解できなかったヒトにもサブリミナル的に共有されているに違いない。これは見事であるが、よく考えると恐ろしいことと言わねばならないかもしれない。
 「あの劇を観て自分が虚無の中に生きていることを自覚した者がどのくらいいるのだろうか。是非知りたいものだ」と自分だけ覚醒しているかのようにいうのはたやすく、小賢しいのだが、本当は自分も自覚していないのだと思う。マンションの隣の号のうちのお父さんは白いイヌかもしれないのだから。なによりも「罪」だけは没個性、共通の顔をしていて、しかも異形なのだ。
 

シアターX(カイ)『やみ夜』樋口一葉 [演劇]

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 シアターX(カイ)主催『やみ夜』(樋口一葉)を観た。その前にマイケル・ムーア監督の『キャピタリズム 踊るマネー』を観ていて、そして直前にハイチの地震があり、で実に複雑な心境で両国へと向かった。
 なにもハイチに地震が起こらなくてもいいではないか。これが不条理でなくてなんであろうか。アメリカのすぐ隣の最貧国。奴隷制度の末にアメリカにもフランスにもネグレクトされたやみ。この国ではゴミ捨て場(といっても国連軍のゴミ捨て場だが)に悪臭はないという。腐肉さえも子供達によって持ち去られてしまうからだという。アジアの子供達がゴミを拾うゴミ捨て場には悪臭が漂っているだけまだ裕福なのだそうだ。その国であんな地震が起こるとは。これでも神はいるというのか。
 マイケル・ムーアの映画では1%の富裕層がアメリカの95%の富を独占し、貧しい側の人口の95%の国民の財産を合わせたよりもその額は多いという資本主義の不条理を訴えていた。当然である。しかし、この国では「いつかおまえも大金持ち」という家庭の教育テーゼが刷り込みになってるという(ほんとかね)らしいからしょうがないのだろうか。資本主義というものの本質は確かに見えた。しかし米国では富裕層の出すゴミ(寄進)だけでも日本のホームレスよりいい食事にありつけるらしい。
 ということはグローバルな視点から見て、アメリカの富裕層というのは世界でいうところのアメリカ国家に他ならない。テロが起きても全く不思議ではない。アメリカンドリームはイスラム圏にとって全く意味を持たないし、それは絶望に他ならないのだから。
 さて前置きが長くなったが、シアターXの『やみ夜』。色々な仕掛けがおもしろかった。薄幸で美貌のうら若い女主人役が狂ったような明治文語を話す老女優であることや、じいやとばあやが比較的若い俳優でばあやが僕の好きな「お江戸でござる」のお重ちゃん(メイド服のようなものを着てた)だったりして。一葉のやみ夜が現代に直結していることも十分説得力があったので楽しめた。しかし前途のハイチの地震である。想念は別の所にも飛んでしまいがち。
 江戸の町にはゴミ一つ無く、貧しいながらも循環社会が確立し、平和で持続可能な生態系や消費システムが確立していたように見える(お江戸でござるで学んだのね)。しかし農村部には飢饉もあり、間引きや人身売買も横行していただろう。元禄とはいえ江戸のやみも隠しようのない事実だったのだ。そして一葉の明治維新以後の「やみ」。これは勃興した商人階級のもたらしたキャピタリズムの「やみ」である。武家屋敷が一切の権益を失った話は多い。山本有三『路傍の石』などもそうで、もと武士の跡目で没落した主人公の父親が「こいつが女だったら」と息子にいうセリフが実にせつない。
 「士農工商」という身分制度は、商人階級を最下層に据えて、キャピタリズムの弊害を巧みに防御する、ある意味健全な制度だったのではないかという仮説さえ思い浮かぶ。もちろん、現実には「下人」などという差別階級の存在も見過ごせないのだが。
 あまり演劇の感想にはなっていないのだが、この『やみ夜』、非常にタイムリーに多くのことを喚起された。
 ナビに引かれて両国参り、その沿道には吉原大門、見返り柳、回向院など一葉ゆかりの地所多くしてあはれなり。折しも蔵前にて大相撲の開催なれば幟など晴れやかなりしが、世の不条理に心憂きて、われ楽しまず。げに『やみ夜』の深きこと、明白な闇ほどその不条理さのきわまれる理なるべし。
 シアターX、あるご縁でその活動を知るところとなったのだが、非常に意欲的な小劇場として今後も活動を期待するところである。

ハイチに義援金を送ろう。日本ユニセフ、ハイチ義援金サイト
https://www2.unicef.or.jp/jcuApp/servlet/common.CommonControl?action=bokin&bokin_type=3&code=80522

城山羊の会 『新しい男』(三鷹市芸術総合文化センター) [演劇]

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 7月1日 山内ケンジ、作・演出の『新しい男』(三鷹芸術文化センター)を観た。いつもあまり幸福とはいえない人間達を巧みに表現している山内ケンジだが、いままでそこには頽廃という傾向はあまり見られず、ひたすら刺激的だったのだが、この『新しい男』には頽廃の香りがした。それというのも今回の出し物は三鷹芸術文化センターとの共同プロデュースで「太宰治作品をモチーフにした演劇」シリーズで、お題がついていたため、あえてデカダンを敢行せざるを得なかったという感じか。作者はブンガクをなめているつもりはないというに違いないが、ナンチャッテ頽廃としか思えないところが非常におもしろかった。「自死」という主題は山内劇には珍しくないが、頽廃していてはあまり刺激的な表現はできないだろう。頽廃は不条理ではないから。
 なんといっても「今」は現実が創作をはるかに超越している時代である。もっともきょうび起こる事件は無意味に壊れた人間の行動しか見いだせないので興味を引くものではないのだが、表現する側には大変な時代だろうと思う。またはそれを逆手に取るしか表現の道はないのかもしれない。
 劇中で最も頽廃している人物はM美、またはご当地『悲しいほどお天気』T美の若き教授と思われる人物で、早稲田の美学者、坂崎乙郎氏とは対極にあるような人物だ。そして彼が一番自死から遠い位置に描かれている。これは実に皮肉だが、現代をよくとらえている。真面目に生きているものほど報われず死に近い構図、これが今の現実だろう。破綻した米国の巨大資本の役員に巨額なボーナスが出て米社会からも顰蹙が起こったが、その中で「日本の社長のように自殺をしろ」というコメントがあった。これは笑えない話だが、今や日本の社長も自殺はしないでだまって非正規の首を切るだけだ。そして株主は喜び株価が上がる。
 途上国の子供達には自殺はないと聞く。食べるのに精一杯だったら自殺はしないということはあり得るかもしれない。しかし文明にいったん浸食されてしまった国は、後戻りできない時間というものがある。今の日本が飢えても自殺は増えることがあっても減りはしないだろう。戦争待望論というのも聞く。「丸山真男をひっぱたきたい」というあれである。しっかりと趣旨を読むと共感できるものだが、戦争が起こってもおそらくいままでチャンスが無かった者にはチャンスは巡ってこないだろう。これも現代というものだ。
 また今回の『新しい男』で際立っていたのは持たざる者の欲求不満を顕在化させる表現だったと思う。観衆の個別に抱える欲望を爆発させるようなアジテーション。一見単純な困窮によって死をのぞむ者とヒラリヒラリと欲望をとげていく者の対比のあざやかさ。こういう表現に長けているものがコマーシャリズムの専門家であることはやばいんではないか。銀行に金をあずけているようなものではないか。(あ、いいのか。)
 頽廃といえば短絡的にいうと「世紀末」で、ウィーンでクリムトである。なんちゃってこのあたりもちゃっかりあったのでおもしろかったのだが、19世紀末の頽廃は恐ろしくエネルギッシュだった。やはり19世紀末(正確には20世紀初頭)、弟子であるシェーンベルクのコンサートで、マーラーは「途中から彼の対位法を見失った」と感想を述べたそうである。こういう音楽の聴き方があることに自分は衝撃を受けたのだが、話はそこではない。それはシェーンベルクの12音技法の導火線であり、火薬はすでに仕込まれていたのだ。今回の山内劇は「頽廃」という縛りがあったせいか、いつもより対位法がわかりやすかった分楽しめた。時期的に言って今も立派に20世紀末である。いつ火薬が爆発してもおかしくないのだ。頽廃にはそういう希望がある。
オマケ、太宰の墓。桜桃忌の直後であった。
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「新しい歌」 城山羊の会 公演 [演劇]

 山内ケンジ作「新しい歌」を観た。表現者として一貫して冷徹でしかも無邪気な好奇心あふれる視点をもって人の感情や行動、現実社会への問題提起を行う彼にいつも感心する。それはあたかも自閉しているジャズトランペッターが、自分を含む外界を第三者としておもしろがって見つめるようなもので、矛盾であり不条理であり、また奇跡のようなものでもあるのだ。彼の演奏する音楽とよく似ている。
 学生の頃、よく読んだ羽仁五郎の「あらゆるセンチメンタリズムからの脱却」という考え方や行動にとても影響されたのだが、いつも山内ケンジの劇を見ると、このことを思い出す。そして見る側もセンチメンタリズムを排除して観るべきだと思うのだが、現実にはなかなかそうもいかない。
 決して劇に詳しい訳ではなく、ロイヤルシェークスピアとアヌイとジロドゥとあとは山内ケンジの作品という極端で少ない観劇経験しか持っていない事を言い訳にしながら語っているのだが、山内ケンジの作品の場合、とにかく始まったらいったん丸ごと受け入れてしまうしかないのでそれは疲れる。「笑い」に於いても観る者は(自分だけかも)発散できず内省してしまう。彼の劇は観る者に自己または近しい他者の現象をいつも不断に投影することを強いる「投影劇」(こういう言葉があるのかは知らない)という特質が非常に強い。登場人物の特定の誰にも自己同一化や主役としての共感を持つことはさせないのだが、逆に出演者全員に、いちいち自己やその身の回りを投影しながら観ざるを得ないところがあるのだ。これは疲労と消沈を伴うのだが、その場にいるものは特有のアンガージュマンを共有することができる。これが毎回足を運んでしまう山内劇の醍醐味なのかもしれない。
 今回も結末はほとんど全く救いようのない絶望なのだが、それだけではなく、私には私的でリアリティーのある一縷の希望を見いだせた。彼の意図するところなのかどうかはわからないが。
 大きな喪失から始まった彼の途方に暮れた新しい歌に敬意を表し、また次作を期待するものである。

 追伸。いったん耳につくと音楽が鳴りやまないたちなのだが、劇が終わった帰途、悩まずにすんだ。ところが今日、仕事をしていてとてもストレスフルな場面で聞こえてきてしまった。♪アタラシイ ウタヲ ウタオウ♪・・・・・・つらいっす。

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