SSブログ

城山羊の会 『新しい男』(三鷹市芸術総合文化センター) [演劇]

atarasiiotoko.jpg
 7月1日 山内ケンジ、作・演出の『新しい男』(三鷹芸術文化センター)を観た。いつもあまり幸福とはいえない人間達を巧みに表現している山内ケンジだが、いままでそこには頽廃という傾向はあまり見られず、ひたすら刺激的だったのだが、この『新しい男』には頽廃の香りがした。それというのも今回の出し物は三鷹芸術文化センターとの共同プロデュースで「太宰治作品をモチーフにした演劇」シリーズで、お題がついていたため、あえてデカダンを敢行せざるを得なかったという感じか。作者はブンガクをなめているつもりはないというに違いないが、ナンチャッテ頽廃としか思えないところが非常におもしろかった。「自死」という主題は山内劇には珍しくないが、頽廃していてはあまり刺激的な表現はできないだろう。頽廃は不条理ではないから。
 なんといっても「今」は現実が創作をはるかに超越している時代である。もっともきょうび起こる事件は無意味に壊れた人間の行動しか見いだせないので興味を引くものではないのだが、表現する側には大変な時代だろうと思う。またはそれを逆手に取るしか表現の道はないのかもしれない。
 劇中で最も頽廃している人物はM美、またはご当地『悲しいほどお天気』T美の若き教授と思われる人物で、早稲田の美学者、坂崎乙郎氏とは対極にあるような人物だ。そして彼が一番自死から遠い位置に描かれている。これは実に皮肉だが、現代をよくとらえている。真面目に生きているものほど報われず死に近い構図、これが今の現実だろう。破綻した米国の巨大資本の役員に巨額なボーナスが出て米社会からも顰蹙が起こったが、その中で「日本の社長のように自殺をしろ」というコメントがあった。これは笑えない話だが、今や日本の社長も自殺はしないでだまって非正規の首を切るだけだ。そして株主は喜び株価が上がる。
 途上国の子供達には自殺はないと聞く。食べるのに精一杯だったら自殺はしないということはあり得るかもしれない。しかし文明にいったん浸食されてしまった国は、後戻りできない時間というものがある。今の日本が飢えても自殺は増えることがあっても減りはしないだろう。戦争待望論というのも聞く。「丸山真男をひっぱたきたい」というあれである。しっかりと趣旨を読むと共感できるものだが、戦争が起こってもおそらくいままでチャンスが無かった者にはチャンスは巡ってこないだろう。これも現代というものだ。
 また今回の『新しい男』で際立っていたのは持たざる者の欲求不満を顕在化させる表現だったと思う。観衆の個別に抱える欲望を爆発させるようなアジテーション。一見単純な困窮によって死をのぞむ者とヒラリヒラリと欲望をとげていく者の対比のあざやかさ。こういう表現に長けているものがコマーシャリズムの専門家であることはやばいんではないか。銀行に金をあずけているようなものではないか。(あ、いいのか。)
 頽廃といえば短絡的にいうと「世紀末」で、ウィーンでクリムトである。なんちゃってこのあたりもちゃっかりあったのでおもしろかったのだが、19世紀末の頽廃は恐ろしくエネルギッシュだった。やはり19世紀末(正確には20世紀初頭)、弟子であるシェーンベルクのコンサートで、マーラーは「途中から彼の対位法を見失った」と感想を述べたそうである。こういう音楽の聴き方があることに自分は衝撃を受けたのだが、話はそこではない。それはシェーンベルクの12音技法の導火線であり、火薬はすでに仕込まれていたのだ。今回の山内劇は「頽廃」という縛りがあったせいか、いつもより対位法がわかりやすかった分楽しめた。時期的に言って今も立派に20世紀末である。いつ火薬が爆発してもおかしくないのだ。頽廃にはそういう希望がある。
オマケ、太宰の墓。桜桃忌の直後であった。
dazai.jpg

nice!(1)  コメント(1)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 1

sachat06

私も感想を書きました。(ずっと単純ですが)
また次の作品が楽しみですね。
by sachat06 (2009-07-19 21:01) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。