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武満徹 『海へ』 アルトフルートとギターのための を聴く、演奏する その1 [Classic]

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 宇宙の時間を一部分を切り取ったような始まりも終わりもない音楽
これは武満徹が自らの音楽のありようを語った言葉であるが、海も彼にとっては当然宇宙の一部で、宇宙に連なるものであったはずだ。宇宙も海(の底)もかなり絶望的な沈黙の世界である。反面、宇宙は饒舌でもある。おびただしい電波や放射線、飛び交う星間物質。そして海も50億年の進化の末の遺伝子のスープとしての饒舌さを持つ(その遺伝子はいみじくも宇宙に由来するという)。その饒舌な沈黙と孤独に耐えがたくなったとき、武満徹の音楽は求められ存在を始める。沈黙と測りあえるほどに。
 たしかに武満の管弦楽作品は宇宙を感じさせるものが多い。実際その名も『カシオペア』だったり、『オリオンとプレアデス』だったりする。しかし彼の愛したフルートとギターの作品では妙に人間くさい曲が多い。それは『ひとの声』だったり『巡礼』だったり『エア』だったり『12の歌』だったりする。そしてこの『海へ』も、とても生物学的な曲だと思うのだ。
 『海へ』は氏の作品の中でも異色な部分が多い。まず、短い曲なのに3部に分かれて構成されている。ドビュッシーの『海』を意識したものとも受け取れるが『海』はここでは音としては片鱗も現れない。また1,夜 2,白鯨 3,鱈岬と曲が進むにつれてリズムと和声に特有の強いモーションが現れる。これは宇宙的時間の音楽を自他ともに認める武満の作品としては異例の賑やかさである。また3種類ものバリエーションがあり、ギターとのオリジナルに弦楽とハープの『海へⅡ』、ハープとの『海へⅢ』がある。これは彼がこの曲を非常に気に入っていたということでもある。
 ドビュッシーの『海』が海岸からながめた海面や風の時間的な変化をスケッチした作品だとすれば、『海へ』は海の内部でおこる有機的な現象を音にしたものだといえる。単なる標題音楽や描写音楽ではないという反論はあるのは承知だが。そしてさらに言えば自分にとって『海へ』の視点(があるとすれば)の主体の一つはクジラだということが意識から離れない。それは彼自身がこの曲について語った「できれば鯨のような優雅で頑健な肉体をもち、西も東もない海を泳ぎたい」という言葉によって刷り込まれたものだが。
 具体的にこの曲のいくつかのポイントを拾い集めてみる。
 まずフルートに関しては同音異響ともいうべき音の使い方が特に目立つ。声も楽器の音も基本的にはベルカントであることを要求する西洋音楽の原則を逸脱するようなフルートの音が多用されるのだ。ホロートーンといわれる特殊奏法で、それは
1 音色を曖昧にする(音の透明度を変える)
2 音程を曖昧(やや低めのことが多い)にする
という2種類がある。
 また特殊な指使いによる曖昧なトゥリラも多い
 ホロートーンやホロートーンのトゥリラは氏のフルート音楽では比較的多用されているのだが、この『海へ』に限っていえば、ふつうの音からホロートーン、またはその逆の動きとして使用されることが多い。これは自分には「海中から空気中へ、またはその逆の動き」の描写、または光が水中から空気中に射出するときの屈折率の表現や光速の変化の表現、それから混沌から純粋世界への移行(又はその逆)の表現に感じられる。弦楽ではもっぱらエーテルのなかを進む光が重力場にねじ曲げられる様を表現したような音使いが多いのだが、フルート音楽ではより具体的で地上のニュートン力学につらなる古典物理学的現象を表現しているかのようだ。
 たとえば第一曲の「夜」冒頭でフルートのA音(アルトフルートではD音)のホロートーンからふつうの音への移行がppp(無音)からの長い大きなクレシェンドをともなって、ギターの和音に合流する。
 これはまさにクジラが深い海からゆっくり浮上し、夜の海面に静かに達し、泡と波紋が拡がり、それを月が照らし出したという描写だといって大きくはずれてはいないのではないだろうか。(この場合のホロートーンは1のホロートーンが適切であろう)
 こんな風に考えると『海へ』にはかなり明確(正確)な映像のオプチカルトラックを付け加えることができると思うのだ。ちょうど武満徹がおびただしい映画音楽のサウンドトラックを制作したように。ギターの和音からフルートのホロートーンが現れるところは海底に射す一条の陽光だし、ホロートーンのトゥリラが徐々に普通の楽音に変わるところは波紋の収束だったり、風がやみ、凪ぎわたる水面。ギターの純正律からホロートーンでフルートが音程を逸脱するところは無機物から有機物が発生する場面だ。このようなことは思いこんでしまうともう変えられない。
 音楽を言葉にしてはならない。映像などもってのほか。予断を与えるな!なんて叱られそうなのでこれ以上はやめるけれど・・・・。
 最近youtubeには外国で演奏された『海へ』の投稿が多い。Toward the seaで検索してみて欲しい。みんなひどい演奏だ。コメントも「これってニンジャの音楽だろ」「いやこの音楽はLoveだ」なんていうすごいもの。
 武満徹は宇宙でにやにや笑っているのか。ダメです!って怒っているのか。わからないけれども。
 次はこの曲の演奏についても書いてみようと思うのだ。
 いよいよ明日。海へ初演コンビの再演。小泉浩 武満徹生誕80年記念コンサートはこちらへ
http://web.me.com/herosia2/koizumi/concert.html

小泉浩 武満徹生誕80年 演奏会 [Classic]

写真をクリック↓
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 武満徹の生誕80年にあたる今年、その誕生日の10月8日にフルート奏者、小泉浩がオール武満プログラムで演奏会を行う。場所は西武新宿線、小平駅前 ルネこだいら
 小泉浩が武満の音楽の揺るぎないスペシャリストであるのはいうまでもないが、共演者も共に初演から、近年のオペラシティでのアンサンブルタケミツ演奏会まで、一貫して正統な解釈につとめた演奏を継続してきたメンバーである。安心して聴けるし、また再びこの世界にふれることが出来たという喜びを味わうことが出来るのも楽しみである。
 しかし細かいことを言わせてもらえば、『海へ』の小泉・佐藤コンビの演奏はスタジオ、ライブ共に進化(深化)を続けている。演奏時間も音色も間合いも息づかいも、今回はどうなるのか。マニアにはその分析も堪えられない。
 2010年10月8日(金)
 開場18:30 開演17:00
 入場料 3000円
 ルネこだいら中ホール
 西武新宿線小平駅3分
  0423-45-5111  
 
賛助出演
 織田なおみ(フルート)
 佐藤紀雄(ギター)
 甲斐史子(ビオラ)
 木村茉莉(ハープ) 

 曲目
マスク・・・2つのフルートのための
ヴォイス・・・「声」
海へ・・・アルト・フルートとギターのための
巡り・・・イサム・ノグチの追憶に
そしてそれが風であることを知った・・・フルート・ビオラ・ハープのための
エア・・・「遺作」

チケット申し込み Tel 050-3464-0610(大橋)
         Email contem.fl-stu@voice.ocn.ne.jp
又はこのブログまでどうぞ

CD全集 小泉浩 現代日本のフルート作品 連続演奏会+α [Classic]

写真をクリック↓
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 小泉浩氏の10回にわたる「現代日本のフルート作品連続演奏会」という伝説的偉業は1994年から96年はじめにかけて行われた。20世紀の日本のフルート音楽はほとんど網羅されたといっても過言ではないだろう。下記のデータを見ればわかるように非常に速いペースで初演を含む58曲を演奏していったことになる。会場その他の事情が許せばもっと短期間に行うことも出来たとは本人の弁である。その演奏会の全貌を、ご本人を含む関係諸氏の保存されていたDATを元に、今回プライベートではあるがCD化することが出来た。ボックスセットというものがはやっているが、これは演奏家、研究者、愛好者にとっては非常に貴重なものであろう。またFM放送用に収録されたNHK所蔵のオープンリールからもいくつかの貴重な音源がCD化できた。
 残念ながら権利上の問題で誰にでも市販というわけにはいかないが、小泉氏と関係者の許諾によりお譲りすることも可能かと思うので興味のある方は相談ください。
 以下はその詳細である。
Vol.1
第1回 1994年 10/5(水)
■ 南 弘明
独奏フルートのための”メロス” /1992
■ 外山三保子
沙 庭 ーアルトフルートによるー/1977
■ 末吉 保雄
コレスポンダンス Ⅳーフルートと打楽器のためにー /1984
■ 福島 和夫
冥  /1962
■ 喜納政一郎
クロノー・1 ーソロフルートのためにー /1975
■ 天野 正道
瑜 言我 /1980
Vol.2
第2回 1994年 11/23(水)
■ 岡崎 慶紀
フルートまたは篠笛独奏のための
オルフェウスまたは恋の音取 /1986
■ 松岡 貴史
フルートソロのための<ピエタ> /1988
■ 飯田 正紀
フルートとハープのための音楽 ”悲 歌” /1986
■ 松平 頼則
ソマクシャ<蘇莫者>  /1961
■ 田丸彩和子
フルート独奏のための ストリーム /1987
■ 三善 晃
フリュートとハープのための《燦めく翳》/1989
Vol.3
第3回 1994年 12/18(日)
■ 増本伎共子
 フルートソロのための”乱 声” /1983
■ 大前 哲
 ノン・トラモンティ・クエスタ・パッシオーネ
     独奏フルートのための/1993
■ 別宮 貞雄
 朝の歌 Ⅳー室内楽’70のためにー /1976
■ 土居 克行
Song  ーフルートソロのためのー 1/988
■ 池辺晋一郎
 ストラータⅡ  ー独奏フルートのためにー /1988
■ 松村 禎三
 アプラサスの庭  /1971
Vol.4
第4回 1995年 1/28(土)
■ 和泉 耕二
 フルートソロのためのコンポジション /1993
■ 高原 宏文
 2人のフルート奏者のための”コミュニオンⅢ”/1984
■ 峰村 澄子
 「舞」ーアルトフルートのためのー /1984
■ 川崎 優
12音技法による2つのフルートのための小品集より /1988
■ 松平 頼暁
 ガゼローニのための韻    /1965-66
■ 柳田 孝義
 「鏡」       2本のフルートのための /1980
Vol.5
第5回 1995年 2/28(火)
■ 青木 孝義
 呪詛Ⅱ ー無伴奏フルートのためにー/1973
■ くりもと ようこ
  Scenes in Blue  /1987
■ 武満 徹
海へ           /1981
■ 鈴木 博義
 二つの声    /1955
■ 松尾 祐孝
 フォノⅥ   〜フルートソロの為に〜 /1990
■ 福士 則夫
 フルートとギターのための「夜は紫紺色に明けて」  /1992
Vol.6
第6回 3/28(火)
■ 高橋 源行
 アルト・フルート、ピッコロおよびフルートのための
      三つの断章         /1963
■ 飯沼 信義
 2人のフルート独奏のための「テーマと変奏」/1990
■ 遠藤 雅夫
 <光の春>フルート、アルトフルート、ピアノのために /1989
■ 佐々木 隆二
跡絶えたうた            /1998
■ 湯浅 譲二
 フルートソロのための領域    /1978
■ 佐藤 敏直
 遠い国々への伝言      /1986
Vol.7
第7回 1995年 10/3(火)
■ 野田 暉行
 フルートと打楽器のための「エクローグ」 /1970
■ 本間 雅夫
 風 響/ー独奏フルートのためのー<改訂初演> /1995
■ 毛利 蔵人
 冬のために        /1984
■ 川本 哲
Nonagon           /1995
■ 浦田 健次郎
 メロスⅢ    ーフルート、クラリネット、打楽器によるー/1990
Vol.8
第8回 1995年 11/4(土)
■ 江村 哲二
 「インテクテリア第1番」
独奏フルートのための <初 演>    /1991
■ 伊佐治 直
 夜の裏側      /1994
■ 松下 功
 エアー・スコープⅠ
      ーフルートとハープのためのー /1984
■ 高野 眞理
フルート・ソロのための ”恋 歌” /1985
■ 山田 泉
 透徹した時の中で   
   ーフルートとハープによるー    <初 演>  /1995
Vol.9
第9回 1995年 12/19(火)
■ 下山 一二三
 独奏フルートのための『燭』     /1993
■ 延原 正生
 閉ざされた風景    /1989
■ 湯浅 譲二
 2つのフルートによる「相即相入  /1963
■ 近藤 譲
歩く                 /1976
■ 武満 徹
 声(ヴォイス)    /1971
■ 矢代 秋雄
 2本のフルートのための ソナタ   /1958
Vol.10
第10回 1996年 1/28(日)
■ 八村 義夫(1938ー1985)
 マニエラ ーフルートのためのー  /1980
■ 甲斐 説宗 (1938ー1978)
 フルートとピアノのための音楽 /1978
■ 諸井 誠
 ー無伴奏フリュートのためのー パルティータ /1953
■ 坪能 克裕
Eyes ーフルートのためのー<初 演>      /1995
■ 林 光
 フルートソナタ    /1967
■ 武満 徹
 巡り ーイサムノグチの追憶にー     /1989
Vol.11
1 セクエンツァ (ベリオ)
2 エクローグ (野田暉行)
3 輝ける手(福士則夫)
4 冥(福島和夫)
5 フルートコンチェルトⅡ(ジョリヴェ)
   ー小泉浩リサイタル 現代音楽の夕べー
     東京文化会館小ホール 1971.10.28
Vol.12
1 ZONE(福士則夫)
Fl 小泉 浩 Vn 田中千香士 東京コンサーツ
Perc 有賀誠門 百瀬和紀 今村三明
指揮 岩城宏之

     1972.12.13 NHK FM
2 フルートソナタ(バッハ)
Hp 本荘玲子
3 セクエンツァ(ベリオ)
4 パンの笛(ドビュッシー)
     1973.2.15 夕べのリサイタル NHK FM
Vol.13
1 メロディー (ノブロ)
2 シチリアーノ (フォーレ)
3 ソナタ(クロムフォルツ)
4 星たちの息子(サティー 武満徹 編)
5 間奏曲(イベール)
   1976.6.4 夕べのリサイタル NHK FMー
6 幻想曲(ドップラー)
7 フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ
               (ドビュッシー)
8 メヌエット(C.P.E.バッハ)

1978.4.17 NHK 505スタジオ
Vol.14
1 無伴奏フルートのための「領域」(湯浅譲二)
   1978.6.4 NHK イイノホール 
    海へⅡ (武満徹)
2 夜
3 白鯨
4 鱈岬
   1978.4.17 FMクラシックアラカルト NHK FM
5 フルート協奏曲 (真鍋理一郎)
   1984.8.29
Vol.15
1 フルートとピアノのための音楽 (甲斐説宗)
2 ヴォイス (武満 徹)
3 ネブラ (フランク・ベッカー)
4 フルートのための領域 (湯浅譲二)
5 歩く (近藤 譲)
アンコール
7 Dencity 21.5 (ヴァレーズ)

   ヨコハマリサイタル1982.1.22〜6.30
           神奈川県立音楽堂
Vol.16
1 2本のフルートのための協奏曲(ドップラー)
2 悲しきワルツ(シベリウス)
   1983.5.30 新宿文化会館 

3 フルート協奏曲 D dur (モーツアルト)
4 精霊の踊り(グルック)
    2.23 青少年コンサート NHKサービス

5 スペインのフォリア(マレ)
6 ソナチネ(デュティーユ)
7 呪文(ジョリヴェ)
    6.19 夕べのリサイタル NHK FM
Vol.17
小泉浩と仲間達 武満徹作品によるリサイタル 1998
1 ヴォイス
2 ブライス
3 海へ
4 巡り
5 そしてそれが風であることを知った
6 エア      

この記事をあげてから若干の反響があり作曲者縁の方から唯一のレコーディングとのことで作曲者共々CDを聴きたいというご要望があり、お分けするということがあった。喜ばしいことでありました。

 
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鳥羽亜矢子ピアノリサイタル 川口リリア 音楽ホール 2009.10.15 [Classic]

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J.S Bach 半音階的幻想曲とフーガBMW.903
A.W Mozart 幻想曲 ハ短調 K.475
L.V Beethoven ピアノソナタ ホ長調 Op.109
F Mendelsshon 序奏とロンドカプリチオーソ Op.14
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
F Mendelsshon ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ヘ長調(1838)
J Brahms ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 第3番 ニ短調 Op.108
pf 鳥羽亜矢子
vn 澤 亜樹 

 10月になってから毎日、現代音楽のテープ編集とCD制作をやっていた。おまけに前夜は現代曲のコンサートで2台のピアノによるヒジ打ち、頭突き何でもあり(今時ジャズでもやらない、ありゃあオペラシティーの調律さん泣くよなあ)を聴いた。そんなわけで久しぶりの正統派クラシック音楽なので車の中でグールドとアルゲリッチのバッハで頭を初期化してリリアに臨んだ。(いやな客である。)
 1曲目のバッハはバッハの中でも一番絢爛豪華でしかも先進的な曲だと思っていたもの。非常に意欲的な演奏で素晴らしかった。鳥羽さんの演奏は「技術」がどうのこうのというレヴェルはとうに超えられていて安心して聴くことのできるものだった。幾多のコンクールをかいくぐってきたという人にはありがちな刺々しさをまったく感じないのでスタインウェイがとても丸く美しく響く。
 ところが2曲目のモーツアルトの幻想曲が始まってさらにうなってしまった。バッハと見事につながったのである。まあ同じ「幻想曲」というテーマがあるにしろここまで音色と対位法的な共通点が感じられるとは思わなかった。わたしにはここで今夜のプログラムの意図が読めたように思えた。これ(第一部)はバッハからそのバッハ復活の立役者メンデルスゾーンまでを連続する対位法の縦糸で紡いだ組曲であるのだと(われながらうがっているなあ)。あとはまったく違和感なく、この贅沢で奥行きのある組曲をゆったりと楽しむことが出来た。
 バッハはもともと田舎の一作曲家で、当時もさほど名声がヨーロッパ中にとどろくようなこともなく忘れ去られていった音楽家であった。しかしバッハの偉大さは、その楽曲の価値のみならず、子孫と弟子の多さにあった(これは最近読んだフルーティスト大嶋義美さんのムラマツ誌上の文章の受け売りである)。モーツアルトはかなり意識的にその作風からポリフォニックさを廃して、一見、和声とモノフォニックな旋律の自分らしい語法を確立したかに見える。しかしもちろん(ハイドンに続き)バッハ直系といえる理論は引き継いでいた。とくに貴族から嫌われたといわれるこのような短調の、複雑な音楽には縦横に対位法を用いて過去から未来へ突き抜けるような音楽を作ることが出来た。ベートーベンを教えたネーフェはバッハの曾孫弟子である。ベートーベンは弦楽4重奏にこれでもかとばかりに大胆にフーガを取り入れたし、この曲に代表される晩年のピアノソナタにはフガートを積極的に挿入した。続くシューベルトは対位法をまったく学ばなかったと言われている。しかし、忘れ去られていたバッハを見いだしたメンデルスゾーン。彼の大叔母はJ.Sバッハの次男C.P.Eバッハの直弟子だった。彼女はバッハの原典の(当時出版などされていない)平均律クラヴィーア曲集の楽譜を入手できたのであった。死後すぐに忘れられたバッハの音楽は地下水脈となっていて、その湧出は約束されていたのである。
 話はものすごくそれて余談になったが、このプログラムの構成者は巧みであったと言いたいのであり、それは鳥羽亜矢子の演奏によって大成功をおさめていた。欲を言えば、この水脈をさらにたどり、シェーンベルクによる、かのマーラーに「途中で彼の対位法を見失った」と言わしめた12音音階の胎動まで聴きたかったのだが、これはマニアックに過ぎるか。
 本題に戻る。しかしこんなことができるピアニストはそうそうはいるまいと思うのである。ドイツ・オーストリアのバロックからロマン派までを統一感をもたせ、しかもその曲の美質を余すことなく表現する。これはピアノでも最も難しいと言われる伴奏に長けた鳥羽さんだから出来ることなのかもしれない。いろいろな器楽奏者の際立った個性を損なうことなく発揮させるということに低通することなのかもしれない。言い忘れたが鳥羽さんはアメリカで修行(あのシュタルケルの伴奏をしていた!)後、現在東京芸大の器楽科の伴奏という職にある。これはぶっとびすごいのだ。筆者は芸大器楽科大学院フルート部のマスタークラスのおさらい会に潜入したことがあるのだが、そこでみた伴奏ピアニストという人は、横着な学生が前もって渡さないでいた我々には訳のわからないような現代曲の伴奏譜を、本番その場で渡され、片方の眉をピクリとつり上げる程度のリアクションで初見で弾いてしまえるような異才を持った人々なのである。

 第2部のメンデルスゾーンとブラームスは文句なく楽しめた。ピアノとヴァイオリンのための(または逆の表記の)ソナタというのはこうでなくてはならないというお手本のようで、見事な共同作業で独奏者と伴奏者という関係ではない作曲者の真意をよく表現していたと思う。天才少女といわれるようなヴァイオリニストの刺々しい表現につらい思いをするというような心配は全くなかった。澤さんの若々しい音は魅力的だった。

 現代音楽からウィーンフィルまで、ことしもたくさんのコンサートに行ってしまったが、この鳥羽亜矢子リサイタルは今年のベストワンになっちゃうかもしれないなあ。
 私事ではあるが、実は鳥羽亜矢子さんは個人的には面識はないが筆者のご近所さんで、この文化的に貧しい埼玉県K市の新星なのである。しかしひいき目を取り除いてもすごい逸材で、今後も期待してしまう。いろいろな曲を聴かせて欲しいものだ。管楽器との共演も興味がある。プロコやフランクのフルートソナタ(フランクはヴァイオリンだが)なんかも聴きたいものであります。
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EADGHE 開放弦の重力 佐藤紀雄 内垣地寿光 ギターデュオ [Classic]

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 いつもアンサンブルノマドで現代音楽を楽しく聴かせてくれる佐藤紀雄さんのギターデュオを聴きに公園通りクラシックスに行った。ノマドでは指揮をされることが多く、なかなか普段は佐藤さんのギターをたっぷり聴く機会がないので楽しみだった。
 1曲目はグラナドス、『詩的ワルツ集』。この人の作品は原曲がピアノであるのだが、それが納得できない。ギターのオリジナル曲としか聞こえないし、ギター曲として有名な曲も多い。アリシア・デ・ラローチャのグラナドスは好きでこの曲もCDで持っているのだが、ギターで構想しピアノ用にアレンジしたとしか思えない曲が多い。一緒に行ったギタリストにそのあたりを聞いておきたかったのだが、ギター特有の開放弦の響きが魅力的に使われている。ギター用に転調しているのか。チューニングを変えているのか。どうなのだろう。(確認したらデ・ラローチャによるオリジナル版はAdurが基調だったが、BbもF#も派生している。ちなみにアンダールーサはまんまとEだった。)
 2曲目は現代イタリアのドメニコーニの『コユンババ』。これは純正ギターのための曲。耽美的で情熱的な曲である。スパニッシュ的に聞こえるのだが、実は中東の民族音楽が土台なのだそうだ。どうもクラシックギターを官能的に弾かれるとスペイン?という感じになる。この曲からさらに開放弦の重力という意識がわき起こってきた。EADGHEというのはギターの低音からの調弦だが、古今東西のギター曲は(特にネイティブな音楽であるほど)この低音部の開放弦をベースに曲が成立している(と思っている)。とくにボサノバなどは、ハイポジションな音に混入している意外な開放弦の響きが雰囲気を出している。開放弦という地平を音程が(指が指板を)跳ね上がり、やがて落ちてくる(強い解決)というのがギター音楽の本質ではないかと思えてきた。もしかしたらそんなこと当たり前だと言われるくらい常識なのかもしれないのだが、このコンサートで思いついたこと。
 3曲目は現代オランダのトン・デ・レーウの『間奏曲』。この人の曲はアンサンブルノマドのオランダシリーズでも取り上げられているので親しみがわいていた。佐藤さんが丁寧に解説してくれたのでとてもおもしろかった。セリー的なしくみでできている曲らしいのだが、先ほどの開放弦の重力ということが頭からはなれず、この曲はそのギター特有の重力をあえて断ち切った曲という印象を受けた。開放弦が現れるのはほとんどハーモニクスだけで、それはますます無重力や反重力という感じなのだが、逆にそのことで重力が想起される、そんな仕掛けなのではないかと思った。この2曲の対比は非常に興味深かった。
 4曲目はサラサーテの『サパデアード』。もちろんヴァイオリンの曲である。佐藤さんの編曲が冴えていた。自分で作っておいて非常に難しいそうだ。ヴァイオリンと言えばやはり開放弦との関係を思わずにはいられない。これも素人考えなのだが、ヴァイオリンとはヴィブラートのかからない開放弦を忌避する楽器なのではなかったか。ギターではもっとも倍音豊かな響きであえて多用される開放弦は、ヴァイオリンでは死んだ音の扱いをうけているのではないか。これは平均律の発達や伴奏楽器の進化、西洋音楽のグローバル化で、開放弦の響きを犠牲にして起こったことなのではないのだろうか。この曲でギターの開放弦はどのように利用され、または使われなかったのか。もう一度聴きたいものである。ロマの息吹が感じられる情熱的な曲であった。
 1曲目と4曲目は佐藤、内垣地のデュオだったのだが、ギター2重奏の「間」というものを非常に興味深く聴いた。ギター音楽に特有のリズムの揺らぎや間はその音のサスティン(継続)に関係があるのではないかと睨んだのだが、同席したギタリストに尋ねたら「そんなことはない」と不満そうであった。でもさらに追求すると、音が減衰していくことはある種の恐怖であることは確からしい。そして左手のポジションの移動、さらにアヤポンドとかアルアイレというギター教則本に出てくる初心者にとって恐怖の言葉。このあたりにもリズムの揺らぎと間は関係してくるのは間違いあるまい。それを生かしてこそのギター音楽なのだろう。そしてギター2重奏における「間」というものも非常に興味深かった。自分と相手の微妙にずれ、重なり合う「間」。これはききものであった。2人の間でリレーするアルペジオと同じくらいスリリングなものであった。
 あまりにも情報量の多いコンサートであったので2部はまたあとで。
(続く)

ハーディング 東フィル マーラー6番 [Classic]


 東フィルオペラシティー定期でダニエル・ハーディングのマーラー6番を聴いた。これを聴くために会員特権で前売りを確保して楽しみにしていた。東フィルにとっては昨年の『2番』以来で、楽員の一人は再挑戦という意味の言葉を口にしていた。そのときの文京シヴィックでの演奏を聴いたのだが、音楽の流れは素晴らしく、感動的だったのだが、たしかに東フィルは彼の細かく深い要求に十分応え切れなかった感があり、演奏者もそういう自覚があったということだろう。こういう団員のいる東フィルが好きである。指揮者に対して不遜な態度をとり続ける在京のオケの話はよく聞くが、とても長いとは言えない伝統にあぐらをかいて可能性を自ら閉ざしてはいないだろうか。話がそれた。
 リベンジを口にした当の奏者がステージに現れたのがよく見えたのだが、いつもの表情とはやはり違って感じられ、緊張と意気込みがこちらにも伝わってきた。ハーディングが現れ、はじめの音までの時間がすごく長く感じられた。こういう緊張には自分は耐えられそうもないと、いらぬ心配をした。(後で聴いたらハーディング氏、あまり体調は良くなかったらしい)
 出だしのザラザラした軍靴のような低音部のリズムと弦の断片的な不安感の提示に一気にマーラーの世界に引き込まれると同時に気分は解放されていく。メジャーオケの響きじゃないかわが東フィルよ!という感動がこの段階でわき起こってまたテンションが上がっていく。興奮したなあ。でもアルマのテーマへの導入のフルート主旋律の部分あたりでリラックスできて音楽を楽しめる理想的な状態に自分を持って行くことができた。あとは自分の親しんだマラ6に新しい響きを上書きしていくことができたのだった。2番目に緩序楽章が来ることも最近慣れてきたので違和感はない。あとは3楽章4楽章とズンズン興奮を高めていく。拍子が代わる箇所を縦横なハーディングのバトンで確認しつつとにかく没入していく。怖い物見たさのような感覚で2回のハンマーを待つのも醍醐味である。このハンマーも自分で指揮を見てタイミングを測ってみるのだが、いつも早めに打ってしまい、オレがたたいていたら大事故だなあとまた余計な心配をするのであった。なかなかコーダが終わらないマーラーであるが、あっという間にフィナーレが来た。最後の音の後の時間のまた長いこと。その成就した瞬間と余韻をハーディングと東フィルと聴衆で共有したのだった。普段人嫌いなのだが、あの一瞬たしかに一体感があったなあ。東フィルと若きマエストロには本当に惜しみない拍手をおくった。この間テレヴィでロイヤル・アルバート・ホールのクリーム(クラプトンです、古いね)のライヴを放送していたのだが、もう必死で頭振っているお兄さんがいて、何ともうらやましかったのだが、マーラー6番っていうのはそういう聴き方をする音楽じゃないのかなと思った。クラシックのヘビメタだよね。マーラーは聴衆には厳格で、私語や途中移動を禁止した最初の人だと言われているが、体をスウィングさせながら、指揮の真似をしながら、または寝ながら聴くことができたらいいなあ。そうだロイヤルアルバートホールの桟敷だったら可能だ。いつかハーディングとマラ6でプロムスに行こう。東フィルとハーディングのいい関係が今後も続きますように。


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