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鳥羽亜矢子ピアノリサイタル 川口リリア 音楽ホール 2009.10.15 [Classic]

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J.S Bach 半音階的幻想曲とフーガBMW.903
A.W Mozart 幻想曲 ハ短調 K.475
L.V Beethoven ピアノソナタ ホ長調 Op.109
F Mendelsshon 序奏とロンドカプリチオーソ Op.14
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
F Mendelsshon ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ヘ長調(1838)
J Brahms ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 第3番 ニ短調 Op.108
pf 鳥羽亜矢子
vn 澤 亜樹 

 10月になってから毎日、現代音楽のテープ編集とCD制作をやっていた。おまけに前夜は現代曲のコンサートで2台のピアノによるヒジ打ち、頭突き何でもあり(今時ジャズでもやらない、ありゃあオペラシティーの調律さん泣くよなあ)を聴いた。そんなわけで久しぶりの正統派クラシック音楽なので車の中でグールドとアルゲリッチのバッハで頭を初期化してリリアに臨んだ。(いやな客である。)
 1曲目のバッハはバッハの中でも一番絢爛豪華でしかも先進的な曲だと思っていたもの。非常に意欲的な演奏で素晴らしかった。鳥羽さんの演奏は「技術」がどうのこうのというレヴェルはとうに超えられていて安心して聴くことのできるものだった。幾多のコンクールをかいくぐってきたという人にはありがちな刺々しさをまったく感じないのでスタインウェイがとても丸く美しく響く。
 ところが2曲目のモーツアルトの幻想曲が始まってさらにうなってしまった。バッハと見事につながったのである。まあ同じ「幻想曲」というテーマがあるにしろここまで音色と対位法的な共通点が感じられるとは思わなかった。わたしにはここで今夜のプログラムの意図が読めたように思えた。これ(第一部)はバッハからそのバッハ復活の立役者メンデルスゾーンまでを連続する対位法の縦糸で紡いだ組曲であるのだと(われながらうがっているなあ)。あとはまったく違和感なく、この贅沢で奥行きのある組曲をゆったりと楽しむことが出来た。
 バッハはもともと田舎の一作曲家で、当時もさほど名声がヨーロッパ中にとどろくようなこともなく忘れ去られていった音楽家であった。しかしバッハの偉大さは、その楽曲の価値のみならず、子孫と弟子の多さにあった(これは最近読んだフルーティスト大嶋義美さんのムラマツ誌上の文章の受け売りである)。モーツアルトはかなり意識的にその作風からポリフォニックさを廃して、一見、和声とモノフォニックな旋律の自分らしい語法を確立したかに見える。しかしもちろん(ハイドンに続き)バッハ直系といえる理論は引き継いでいた。とくに貴族から嫌われたといわれるこのような短調の、複雑な音楽には縦横に対位法を用いて過去から未来へ突き抜けるような音楽を作ることが出来た。ベートーベンを教えたネーフェはバッハの曾孫弟子である。ベートーベンは弦楽4重奏にこれでもかとばかりに大胆にフーガを取り入れたし、この曲に代表される晩年のピアノソナタにはフガートを積極的に挿入した。続くシューベルトは対位法をまったく学ばなかったと言われている。しかし、忘れ去られていたバッハを見いだしたメンデルスゾーン。彼の大叔母はJ.Sバッハの次男C.P.Eバッハの直弟子だった。彼女はバッハの原典の(当時出版などされていない)平均律クラヴィーア曲集の楽譜を入手できたのであった。死後すぐに忘れられたバッハの音楽は地下水脈となっていて、その湧出は約束されていたのである。
 話はものすごくそれて余談になったが、このプログラムの構成者は巧みであったと言いたいのであり、それは鳥羽亜矢子の演奏によって大成功をおさめていた。欲を言えば、この水脈をさらにたどり、シェーンベルクによる、かのマーラーに「途中で彼の対位法を見失った」と言わしめた12音音階の胎動まで聴きたかったのだが、これはマニアックに過ぎるか。
 本題に戻る。しかしこんなことができるピアニストはそうそうはいるまいと思うのである。ドイツ・オーストリアのバロックからロマン派までを統一感をもたせ、しかもその曲の美質を余すことなく表現する。これはピアノでも最も難しいと言われる伴奏に長けた鳥羽さんだから出来ることなのかもしれない。いろいろな器楽奏者の際立った個性を損なうことなく発揮させるということに低通することなのかもしれない。言い忘れたが鳥羽さんはアメリカで修行(あのシュタルケルの伴奏をしていた!)後、現在東京芸大の器楽科の伴奏という職にある。これはぶっとびすごいのだ。筆者は芸大器楽科大学院フルート部のマスタークラスのおさらい会に潜入したことがあるのだが、そこでみた伴奏ピアニストという人は、横着な学生が前もって渡さないでいた我々には訳のわからないような現代曲の伴奏譜を、本番その場で渡され、片方の眉をピクリとつり上げる程度のリアクションで初見で弾いてしまえるような異才を持った人々なのである。

 第2部のメンデルスゾーンとブラームスは文句なく楽しめた。ピアノとヴァイオリンのための(または逆の表記の)ソナタというのはこうでなくてはならないというお手本のようで、見事な共同作業で独奏者と伴奏者という関係ではない作曲者の真意をよく表現していたと思う。天才少女といわれるようなヴァイオリニストの刺々しい表現につらい思いをするというような心配は全くなかった。澤さんの若々しい音は魅力的だった。

 現代音楽からウィーンフィルまで、ことしもたくさんのコンサートに行ってしまったが、この鳥羽亜矢子リサイタルは今年のベストワンになっちゃうかもしれないなあ。
 私事ではあるが、実は鳥羽亜矢子さんは個人的には面識はないが筆者のご近所さんで、この文化的に貧しい埼玉県K市の新星なのである。しかしひいき目を取り除いてもすごい逸材で、今後も期待してしまう。いろいろな曲を聴かせて欲しいものだ。管楽器との共演も興味がある。プロコやフランクのフルートソナタ(フランクはヴァイオリンだが)なんかも聴きたいものであります。
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城山羊の会 『新しい男』(三鷹市芸術総合文化センター) [演劇]

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 7月1日 山内ケンジ、作・演出の『新しい男』(三鷹芸術文化センター)を観た。いつもあまり幸福とはいえない人間達を巧みに表現している山内ケンジだが、いままでそこには頽廃という傾向はあまり見られず、ひたすら刺激的だったのだが、この『新しい男』には頽廃の香りがした。それというのも今回の出し物は三鷹芸術文化センターとの共同プロデュースで「太宰治作品をモチーフにした演劇」シリーズで、お題がついていたため、あえてデカダンを敢行せざるを得なかったという感じか。作者はブンガクをなめているつもりはないというに違いないが、ナンチャッテ頽廃としか思えないところが非常におもしろかった。「自死」という主題は山内劇には珍しくないが、頽廃していてはあまり刺激的な表現はできないだろう。頽廃は不条理ではないから。
 なんといっても「今」は現実が創作をはるかに超越している時代である。もっともきょうび起こる事件は無意味に壊れた人間の行動しか見いだせないので興味を引くものではないのだが、表現する側には大変な時代だろうと思う。またはそれを逆手に取るしか表現の道はないのかもしれない。
 劇中で最も頽廃している人物はM美、またはご当地『悲しいほどお天気』T美の若き教授と思われる人物で、早稲田の美学者、坂崎乙郎氏とは対極にあるような人物だ。そして彼が一番自死から遠い位置に描かれている。これは実に皮肉だが、現代をよくとらえている。真面目に生きているものほど報われず死に近い構図、これが今の現実だろう。破綻した米国の巨大資本の役員に巨額なボーナスが出て米社会からも顰蹙が起こったが、その中で「日本の社長のように自殺をしろ」というコメントがあった。これは笑えない話だが、今や日本の社長も自殺はしないでだまって非正規の首を切るだけだ。そして株主は喜び株価が上がる。
 途上国の子供達には自殺はないと聞く。食べるのに精一杯だったら自殺はしないということはあり得るかもしれない。しかし文明にいったん浸食されてしまった国は、後戻りできない時間というものがある。今の日本が飢えても自殺は増えることがあっても減りはしないだろう。戦争待望論というのも聞く。「丸山真男をひっぱたきたい」というあれである。しっかりと趣旨を読むと共感できるものだが、戦争が起こってもおそらくいままでチャンスが無かった者にはチャンスは巡ってこないだろう。これも現代というものだ。
 また今回の『新しい男』で際立っていたのは持たざる者の欲求不満を顕在化させる表現だったと思う。観衆の個別に抱える欲望を爆発させるようなアジテーション。一見単純な困窮によって死をのぞむ者とヒラリヒラリと欲望をとげていく者の対比のあざやかさ。こういう表現に長けているものがコマーシャリズムの専門家であることはやばいんではないか。銀行に金をあずけているようなものではないか。(あ、いいのか。)
 頽廃といえば短絡的にいうと「世紀末」で、ウィーンでクリムトである。なんちゃってこのあたりもちゃっかりあったのでおもしろかったのだが、19世紀末の頽廃は恐ろしくエネルギッシュだった。やはり19世紀末(正確には20世紀初頭)、弟子であるシェーンベルクのコンサートで、マーラーは「途中から彼の対位法を見失った」と感想を述べたそうである。こういう音楽の聴き方があることに自分は衝撃を受けたのだが、話はそこではない。それはシェーンベルクの12音技法の導火線であり、火薬はすでに仕込まれていたのだ。今回の山内劇は「頽廃」という縛りがあったせいか、いつもより対位法がわかりやすかった分楽しめた。時期的に言って今も立派に20世紀末である。いつ火薬が爆発してもおかしくないのだ。頽廃にはそういう希望がある。
オマケ、太宰の墓。桜桃忌の直後であった。
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Mystrerious #D Selmer short shank Soloist mouthpiece、D の研究 その3 野音ライブ編 [sax]

ここから見た人は2つ遡って見てくれないと意味不明なのでよろしく。
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 上野水上音楽堂でやったビッグバンドのライブで勝手にショートシャンクの試奏をやった。4曲ソロがあったので4種類のDを試すことができたわけだが、それじゃあまりにも忙しいし、いみじくもバンドの本番なのでやめて、ショートシャンクの分類ラベルCを使ってマイク乗り、音程のチェックをした。マウスピース選定風のフレーズだったらゴメン。
 リハーサルから本番まで4時間あったのでステージ裏で4本比べてずっと吹いていたら翌日すごい頭痛になった。姿を見た人はコルトレーン並みのキ○ガ○だと思ったに違いない。
 野音なのでおそらくマイクロフォンは低域をかなりカットしているはず。ここで吹くといつもペラペラの音になる。今回はどうか。あと野音って返しのモニターがよく聞こえないのでソロつらいのだ。
曲はコルトレーンの「Central park west 」
http://homepage.mac.com/herosia2/music/cent.mp3
カーラブレイの「Strange arrangement」
http://homepage.mac.com/herosia2/music/stra.mp3
 結局このマウスピースはいい。音程は問題にならないレベルである。低音域が出てないのはPAのせいでしょう。ジョーヘンのアーシーなところがイマイチ出ていないようですが、高音部のはじける感じはなかなかよろしいと思います。

Mystrerious #D Selmer short shank Soloist mouthpiece、D の研究 その2 実践編 [sax]

えーっと、初めていらっしゃった方は前の記事から見ていただかないと事情がわからないと思いますので1個戻ってください。
前の記事をまとめると、静特性データは自分のが6点とするとAラベル7点、Bラベル7点、Cラベル9点くらいになったというわけです。やっぱり曲をやってみなきゃ、といういことで、朝から一発取りです。

☆Lush Lifeをマイナスワンを使って録音してみた。

アドリブはいろんな音域でバランスをみるため吹いてみましたというところなので、演奏内容に関してはごめんなさい。
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マイク Sennheiser MD441U 音圧を感じたかったのでダイナミックマイクを採用
インターフェイス Tascam FW-1804
ソフト Logic pro 8
マイナスワン Jamey Abersold 34 Ballad Lush life
エフェクト 大先生と同じくらいのリヴァーブをかけました。
楽器 A Selmer Tenor M6 #91***

演奏結果
1 自分のソロイストD エクスパンダブルリガチャー リード La Voz Medium soft
http://homepage.mac.com/herosia2/music/lushlifeD1.mp3
2 ソロイストD ラベルA  以下同じ
http://homepage.mac.com/herosia2/music/lushlifeD2.mp3
3 ソロイストD ラベルB
http://homepage.mac.com/herosia2/music/lushlifeD3.mp3
4 ソロイストD ラベルC
http://homepage.mac.com/herosia2/music/lushlifeD4.mp3
5 オマケ 大先生のCDから Lushlife
http://homepage.mac.com/herosia2/music/lushlifeJH.mp3
すいませんマイナスワンを消し忘れていたので、明日なおします。

*感想ですが、前回の分析は部分的特性というもので、AとCが自分のものに比べて個性的で評価が高かったのだが、やはり曲を吹いてみると全く違う側面というか、実際的な特性が表れるものだと思った。
 それで自分のDは動特性(実際の曲の演奏)はかなり実戦的でいいと思った。
静特性が似ていたラベルBもかなりというか、もっと良かったようだ。これは音程も特別にいいのでこれかな、という気がしてきた。このタイプは自分のに似ていて、慣れているのでうまく鳴ったということもあるかと思う。
*お友達の皆さん、迷っております。コメントを下さいませんか。



Mystrerious #D Selmer short shank Soloist mouthpiece、D の研究 [sax]

我が家に結集した4本のDの勇姿。大型出力管(6CA7かな)のようである。
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送られてきた付属のヴィンテージリガチャーと自分のエクスパンダブル(これで比較を進めていく)
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セルマー マウスピース ショートシャンク ソロイスト D テナー用である。今これが絶好調。しかもリードはラヴォーズmsである。この組み合わせは現実的ではないと思いこんでいた。もちろんジョー・ヘンダーソンのセッテイングである。だれも彼のセッテイングでは吹けないのだと思っていたのである。今まではこのような狭いマウスピースにフレンチカットの固めのリード(たとえばヘムケ#4)をセットしてダブルリップスでサブトーンを追求してきた。ところが状況が変わった。一つはサックスを吹く時間(練習の)が多くとれるようになったこと。それからサックスの練習ミュートでおもしろがって筋トレしていたら体質が変わってしまったのである。簡単に言うとあらゆるマウスピースが使えるようになって、全部薄めのリードでちゃんと鳴るようになったのである。それなら追求するのはとりあえず相変わらずジョーヘンである。
 そこに、(この財政難の折)ある方から思いがけずショートシャンクのDをもう一本譲ってもらえることになり(持っていた1本目も譲っていただいている方です)、しかも今放出できる3本の中から選ばせてもらえることになったのである。何という幸運!
 ショートシャンクのD以上のオープニングのものはむちゃくちゃ貴重である。そんじょそこらに無いはずなのだが、このお方は3本も放出できるという。みんな仕方なくC☆くらいの物(これは市場にふんだんにある)をリフェイスして使っているのだが、ショートシャンクをリフェイスするのは危険である。ピッチが狂いやすいようなのだ。私の経験ではピッチが高めになり、音域によって安定しない現象が多く見られるのである。おわかりのようにショートシャンクをネックから抜いていくのは致命的である(半ば抜けちゃった状態ね)。
 オープニングEになるとさらに貴重なのだが、サブトーンと普通の音の間のホロートーン(だからジョーヘンの音ね)がかんたんに出せるのは私はDがもっとも適していると思うのだ。Eはふつうにとっても素晴らしいマウスピースだといえる。
 おのれの欲深さに罪を感じながらも私は4本のDと一緒に昨夜は実に幸福な眠りについたのである。
 それでせっかくだからショートシャンク、今回はDの研究をしてみたい。以前にショートシャンクのレポートはこのブログで行っているが、今回はDだけの巻きである。みんな興味ないと思うケド、勝手に始める。

 〈ショートシャンクDの研究と考察、実際〉
① 観察
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 左から自分のもの、それからA、B、Cと小さなラベルを貼って区別できるようにした。まず、観察した状態であるが、かなり古いはずだが、あまりゴムが焼けていないので保存状態はきわめてよかったことがしのばれる。Cが変色の度合いが深いので保存環境が違っていたか、またはこの個体だけが製造が古い、または天然ゴムの割合が多いといった可能性が考えられる。しかも写真を目視してもかすかにわかると思うが、この個体だけわずかに細いのである。これは2番目の写真のセルマーエクスパンダブルリガチャーを共通に使用したのだが、その止まる位置が他の3個体よりも3mmほど深いのだ。

② 低音域のつながり 自分のDを対照にして他の3個体を比較すると
 自分のもの:○ A:◎ B:○ C:◎
 となった。自分のもので十分満足しているので、AとCはとんでもなく良いということになる。それにしてもショートシャンクというのは見事にばらつきのない優秀なプロセスによって製造されていたことがわかる。 ブリルハートがそのばらつきによって個性を出していたのとは対照的である。まあこの点でどちらが優れているかは一概に言えない。ホンダNSXとフェラーリを比べるようなものだ。
③サブトーンの豊かさ
 自分のもの:○ A:◎ B:○ C:◎
 という結果になった。まあ①と同じ結果である。サブトーンの重要さがわかる。

③ 中音域の音質
 自分のもの:ややハード A:ソフト B:ややハード C:ソフト
 結局サブトーンの成分が多いものほどソフトなのだ。

④ 中音域D(実音C)の個性
 自分のもの:パワフル A:ファット B:パワフル C:ファットで倍音が豊か
 D(レ)の音は重要である。絶対音感が無くてもコルトレーンのDの音は音色でわかるくらいだ。
 ここまでは順調で、どれも素晴らしい。自分のものにない個性を求めるとすればAかCという風に限定可能なのだから。ところが次の結果から様子が変わってくる

⑤ ピッチ(音程)
 自分のもの:○ A:◎ B:Ex◎ C:やや高く、音域によってはやや変調あり 
という結果になってしまった。自分のDは以前、6本のショートシャンクのなかでもピッチの正確さは無類であったのだが、AとBはさらに安定しているようなのだ。逆にCはやや不安定(誤差の範囲だが)さが見られた。思うに、豊かな音質をもとめてCタイプ(細身)のショートシャンクが作られたが、楽器の音程の向上やアンサンブルのニーズなどによってこの時期、改良が行われた結果が残りの3本ということだとすればわかりやすい。ショートシャンクはロングシャンクの無骨なほどの安定感にくらべればピッチが変化しやすい。これが多様な表現を可能にしているのだから、音程の不安定さはショートシャンクの価値にさほど響かないのだが、リードセクションの一員としては責任がある。おそらくショートシャンクの製造が終わって、復刻さえも出ないのはこれが理由なのではないか。これを正確に作れる職人がおそらくもはやいないし、量産不能だからなのだと思う。選択は混迷を深めてきた。
 今日はこれで1日終わってしまった。最後にメッチャ耳がいい友人にジョーヘンのCDの音と聞き比べてもらったのだが、みんな充分ジョーヘンだという(手前味噌だ)。
 続きは明日以降。マイナスワンでの録音結果の比較、コンボでの録音結果の比較、野外音楽堂での比較、ライブなスタジオでの比較、デッドなスタジオでの比較。という風に進めていきたいとおもう。実は私は理科系なのだ。
 つづく・・・・・・

Here comes the sun [poem]

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 やうこうきたり            ジョージ・ハリスン

陽光来たり
陽光来たり
よきかな

我ぎ妹子よ
去年の冬のいと長くわびしく寒きこと
我ぎ妹子よ
長き年月陽の隠れていたるごとし

陽光来たり
陽光来たり
よきかな

我ぎ妹子よ
人々の再び微笑むこと
長き年月陽の隠れていたるごとし

陽光来たり
陽光来たり
よきかな

陽光 やうこう 陽光 来たり

我ぎ妹子よ
氷のいと緩やかに融けていく想い
長き年月陽の隠れていたるごとし

陽光来たり
陽光来たり
よきかな

(クラプトンが庵にて詠める)

もっと教養があれば漢文訓読体、または漢文で書きたかった。
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EADGHE 開放弦の重力 佐藤紀雄 内垣地寿光 ギターデュオ [Classic]

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 いつもアンサンブルノマドで現代音楽を楽しく聴かせてくれる佐藤紀雄さんのギターデュオを聴きに公園通りクラシックスに行った。ノマドでは指揮をされることが多く、なかなか普段は佐藤さんのギターをたっぷり聴く機会がないので楽しみだった。
 1曲目はグラナドス、『詩的ワルツ集』。この人の作品は原曲がピアノであるのだが、それが納得できない。ギターのオリジナル曲としか聞こえないし、ギター曲として有名な曲も多い。アリシア・デ・ラローチャのグラナドスは好きでこの曲もCDで持っているのだが、ギターで構想しピアノ用にアレンジしたとしか思えない曲が多い。一緒に行ったギタリストにそのあたりを聞いておきたかったのだが、ギター特有の開放弦の響きが魅力的に使われている。ギター用に転調しているのか。チューニングを変えているのか。どうなのだろう。(確認したらデ・ラローチャによるオリジナル版はAdurが基調だったが、BbもF#も派生している。ちなみにアンダールーサはまんまとEだった。)
 2曲目は現代イタリアのドメニコーニの『コユンババ』。これは純正ギターのための曲。耽美的で情熱的な曲である。スパニッシュ的に聞こえるのだが、実は中東の民族音楽が土台なのだそうだ。どうもクラシックギターを官能的に弾かれるとスペイン?という感じになる。この曲からさらに開放弦の重力という意識がわき起こってきた。EADGHEというのはギターの低音からの調弦だが、古今東西のギター曲は(特にネイティブな音楽であるほど)この低音部の開放弦をベースに曲が成立している(と思っている)。とくにボサノバなどは、ハイポジションな音に混入している意外な開放弦の響きが雰囲気を出している。開放弦という地平を音程が(指が指板を)跳ね上がり、やがて落ちてくる(強い解決)というのがギター音楽の本質ではないかと思えてきた。もしかしたらそんなこと当たり前だと言われるくらい常識なのかもしれないのだが、このコンサートで思いついたこと。
 3曲目は現代オランダのトン・デ・レーウの『間奏曲』。この人の曲はアンサンブルノマドのオランダシリーズでも取り上げられているので親しみがわいていた。佐藤さんが丁寧に解説してくれたのでとてもおもしろかった。セリー的なしくみでできている曲らしいのだが、先ほどの開放弦の重力ということが頭からはなれず、この曲はそのギター特有の重力をあえて断ち切った曲という印象を受けた。開放弦が現れるのはほとんどハーモニクスだけで、それはますます無重力や反重力という感じなのだが、逆にそのことで重力が想起される、そんな仕掛けなのではないかと思った。この2曲の対比は非常に興味深かった。
 4曲目はサラサーテの『サパデアード』。もちろんヴァイオリンの曲である。佐藤さんの編曲が冴えていた。自分で作っておいて非常に難しいそうだ。ヴァイオリンと言えばやはり開放弦との関係を思わずにはいられない。これも素人考えなのだが、ヴァイオリンとはヴィブラートのかからない開放弦を忌避する楽器なのではなかったか。ギターではもっとも倍音豊かな響きであえて多用される開放弦は、ヴァイオリンでは死んだ音の扱いをうけているのではないか。これは平均律の発達や伴奏楽器の進化、西洋音楽のグローバル化で、開放弦の響きを犠牲にして起こったことなのではないのだろうか。この曲でギターの開放弦はどのように利用され、または使われなかったのか。もう一度聴きたいものである。ロマの息吹が感じられる情熱的な曲であった。
 1曲目と4曲目は佐藤、内垣地のデュオだったのだが、ギター2重奏の「間」というものを非常に興味深く聴いた。ギター音楽に特有のリズムの揺らぎや間はその音のサスティン(継続)に関係があるのではないかと睨んだのだが、同席したギタリストに尋ねたら「そんなことはない」と不満そうであった。でもさらに追求すると、音が減衰していくことはある種の恐怖であることは確からしい。そして左手のポジションの移動、さらにアヤポンドとかアルアイレというギター教則本に出てくる初心者にとって恐怖の言葉。このあたりにもリズムの揺らぎと間は関係してくるのは間違いあるまい。それを生かしてこそのギター音楽なのだろう。そしてギター2重奏における「間」というものも非常に興味深かった。自分と相手の微妙にずれ、重なり合う「間」。これはききものであった。2人の間でリレーするアルペジオと同じくらいスリリングなものであった。
 あまりにも情報量の多いコンサートであったので2部はまたあとで。
(続く)

フレディー ハバード [jazz]

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 訃報から始まる元旦もいいものだ。
 朝刊に小さく出ていた。用意された長めの特集記事が多い中にひっそりと。
 出会った頃の評価は「サックスのようにトランペットを吹く」というもの。必ずしも褒め言葉ではなかったが、やはり異才だったろう。本当は彼にしかできないトランペットフレーズだったことを世界中のTp吹きは思い知っていたはず。
 その後、彼は譜面を読めないTpだといわれた。実は彼は読まなかっただけで、やはり誰にもできないことだった。それはジャズのみならず音楽の本質への最短距離なのだから。難しい曲でも一度のリハーサルでリフも進行も完全に把握できたという。楽譜が読めるようになるとアドリブはつまらなくなるものだ。こういう経験はよくある。
 サックス吹きが2管でアレンジするとき、想定するのはクリフォードか、モーガンか。ちがうな、フレディーだろう。下でハーモニーをつけて一番気持ちがいいのは彼だ。マイルスはおっかないしね。ただしソロでは完全に食われる。それでもジョージ・コールマンは幸福だっただろう。
 日本でジャズフェスが等身大で文化現象だった時代、あるジャズフェスでタモリがステージでロングトーン比べをしようと提案した。かれは胸を指さし「ラッパはここで吹くんだ、おまえにはハートがないのか」とのたもうた。体育系Tpとも言われたが誰よりも繊細だった。
 晩年のある時期、彼は唇に障害を持った。トランペット奏者は基本的にスタイルを変えないので自分のフレーズを吹こうとするのだが、それを完全に音にできない。見ていた我々はその音を補完して聞くことができた。それは最盛期よりも感動的だった。彼には屈辱だったのだろうが。我々はいつもフレディーが好きだった。
 自分にとって彼の最後のCDはジョーヘンのビッグバンドにおけるソロだった。それは輝いていた。復活した人を見るとき、人はうれしいものだ。
 あの世でマイルスはうるさい奴が来たなあと思うに違いない。この世代を失うことでジャズはまさに命を失うが、古典としての価値は揺らがないものになっていく。それは寂しいが、歴史とはそういうものだ。
 
 

2008、年末に振り返る [Classic review]

 今年も色々聴いた。ジャズは厳選し、ショーターとロリンズという王道のみ。これはよかった。クラシックは若手から大御所までいろいろ聴いた。フルートの演奏会は今年はあまり行かなかった。自分の練習が忙しかったのもある。パユもパス。でも年末のアンサンブル・ノマドの木の脇道元氏のソロには胸を打たれた。収穫だった。
 今の日本で「蟹工船」が流行るなんて信じられない事だったし、本当はおおかたの人は立ち読み程度しかしてないんだろうけれど。生きていくのに大変で音楽どころじゃない人が増えたのだろうか。芸術くらいはそういう物を超越した行為であってほしいとおもうし、そういう最低限のことはやはり保証されている社会であってほしいものだ。ロンドンのプロムスではステージ前が立ち見でブルーカラーの人々が身じろぎもせずにブルックナーを聴いていて、それは地下鉄の初乗り運賃より安かったりするので、やはりあの国はすごいのだ。まあ自分も家計における問題はやはり大事なので、今年はコンサートはかなり選び抜いた。破格4万円のベルリンフィルもまあ支出に見合う幸福を与えてくれた。でもあまり楽しめなかった演奏会もあった。名曲なのに眠くなったりしてね。どうも職人的に上手に演奏しているように聞こえるもの、なにか自発性に欠けるような印象を持った演奏というものを嗅ぎ取ると、とたんに名曲も眠くなる。長尺の交響曲の中間部に美しくないハーモニーが聞こえたりするんだこれが。
 「蟹工船」と言えばよく昔は音楽家の労働運動や権利活動(ユニオンね)のことが話題になった(関係ないか)。特にチャーリーパーカーの伝記に出てくるようなアメリカのクラブのユニオン制度が有名だけれど、クラシックでは今も外国のオケのユニオンは強力らしい。リハーサルが長かったりすると文句を言うようなね。今年東フィルと競演したジスモンチ氏はテレヴィのインタビューで「このオケは練習時間など関係なく自分の要求に応えてくれた」なんて褒めていたけれども、こういう事は人間として労働者として音楽以前に解決されていなければならないことなわけで、そんなこと褒められてもしょうがないのだけれど。日本のオケも昔は有名な組合潰しや分裂の話があったっけ。今書いたつまらなかった演奏のオケは組合側か潰した方か、どっちだと思いますか?  
 話は変わるが、この間、数少ない同業者の音楽仲間(テナー吹き)と酒を飲んだのだが、彼の酔いが回るにつれ「ブラスバンドはインチキ音楽だ」というとてもわかりやすい愚痴が出て、まあ全く同感で、最近は自分はもうそういうことはとっくに諦めていてあまり口にしてなかったので、かえって新鮮に聞こえたのだったのだが。
 その吹奏楽の胡散臭さの大きな理由には「コンクール至上」というものがある。簡単に言うと演奏の基礎をやる前になんたら序曲のピラピラしたフルートのオブリガードを中学校1年生は必死にさらわなくては夏のコンクールに間に合わないという現実があり、そこには音楽性のかけらもないわけです。そんな土壌が強い日本の音楽教育の状況はもしかして音大やオーケストラまである意味連続してるのだろうか。  
 最近感じるのは日本のオケがあまり楽しそうに演奏してないこと。ヨーロッパのメジャーオケってだいたいノリノリで楽しそうに演奏するもんなあ。
 ここいらが前回書いたベネズエラのユースオーケストラと際だった対比なのですね。人口2千5百万人に対して200人からなる250もの青少年オケがあの狭い国土にひしめいていて、みんな自発的に音楽行為を行っているという。もちろん頂点のシモン・ボリバルユースオーケストラへの道には熾烈なものがあるだろうけれども、大方はコンクールとは無縁の楽しいオーケストラ活動がある。そういう風土のオケを聴いた後だったのでなおさらつまらない演奏に出会った感じがしたのであるらしいのだが。
 美学者の故坂崎乙郎氏が「日本に真の芸術が現れにくいのは天皇制に基づく叙勲のような制度が温存され、それが到達点であるということが原因の一つだ」と述べている。「自我の、自己のイメージの実現こそが制作者の唯一の目的であるとするならば、なぜ芸術家が賞によって報いられる必要があるのだろう」と。こうも言っている「キリスト教の教えを信じていたゴッホは、やがて制作の中や、制作の上に神をたずねていた」とも。
 美術と音楽はこの次元では同じであろう。
 イマイチだった演奏会には座席の位置とか自分の体調を考え合わせて穏便な理由を考えて収めるのだけれども、でもいい演奏は自分の状態と関係なくいいもの。
 よくなかった演奏会をネタに、日本の音楽教育など、年末につらつらととりとめもなく思うのであった。はいごめんなさい。来年はもっと練習します。

ベネズエラの希望 [世界]

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与えられたトランペットを無心に吹く少年

グスターヴォ・ドゥダメル率いる、シモン・ボリヴァル・ユースオーケストラを聴いた。
心待ちにしていたコンサートであった。おまけにアルゲリッチまでついてきた。
ベネズエラで「音楽で貧困と非行を克服する」というプロジェクトが始まって約30年。このような形で実を結ぶと当時誰が思っただろう。
 産油国でありながらアメリカに介入されずに独自の国家スタイルを築いてきたベネズエラ。治安に、独裁に格差による貧困といろいろなことが報道されていた。それから日本の現代音楽演奏家たちが熱狂的に現地で迎えられたという話も知り合いから聞いていた。そんなわけで以前テレビでも放映されたこのオーケストラと、指揮のドゥダメルには注目してきた。その映像にはラトルが、アバドが、感涙にむせぶシーンもあり、何がそんなに感動を呼ぶのか、とても興味があった。
 この国では年間600万ドルの国家予算を、楽器と国内に250ほどあるユースオーケストラの運営に充てるという(教育予算世界最低の日本の政府は恥じ入って欲しい)。
 銃による傷害で少年院に入れられた少年にクラリネットが渡された。「どうして自分に盗まれる事を警戒しないのだろう」という少年の疑問はすぐに氷解した。それは自分に無償で与えられたのだった。そしてやがて刑務所は巨大な音楽練習施設に生まれ変わったという。
 その広い底辺の頂点に立つのがこのオーケストラである。ドゥダメルは100年に一度の指揮者とさえ言われている。このオケ出身の27歳の若者で、すでにウィーンフィルなどで客演している。
 結果は日本の聴衆ではヨーロッパのメジャーオケですら希なスタンディングオベイションの嵐であった。かれらの演奏能力は自分の想像を超えていた。メインはマーラーの一番「巨人」。ボヘミアの森、霧の中の夜明け、遠くで朝靄の中から聞こえる兵舎の起床ラッパと鳥たちの声。これらをヨーロッパ的な完璧さでこの南米出身の若者たちがなぜ感動的に演奏してしまうのだろう。そんな疑問よりもまずは感動に打ちのめされたのだが。
 あとから考えたことだが、非行と暴力、貧困から音楽の力で復興、創造された彼らの若い力は、ユダヤ人の苦悩と屈折も、パレスチナの悲劇も、インドのカーストの悲惨な差別も、アパルトヘイトも、アメリカの大統領選挙も軽々と凌駕する力を持っていたということではないのか。芸術とはいつも破壊であり、革新であったはずだ。クラシック音楽などという伝統は超えられてこそ芸術たり得るのだから。彼らは音楽にまで浸透する偏狭なグローバリズムを易々と超越したのだった。ラトルーベルリンフィルでさえなしえなかった奇跡を東京国際フォーラムでやり遂げたのだ。音楽に国境はなく、芸術に限界はない。この確信は今年の大きな成果であり、明日への希望になった。

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感動のマンボ アンコールで

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