SSブログ

鳩山由紀夫の演説 [poem]

 鳩山由紀夫が施政方針演説を行った。自民党政権時代、見る機会も動機も興味もなかったし、偶然見てもすぐにチャンネルを変えたと思う。理由は心にもない嘘や賛同できない主旨にすぐにぶつかることもさることながら、官僚的な意味不明の言葉がすぐ出てくるからだ。しかし今回、50分間フルに見てしまった。自分の人生の50分間も!!。
 この演説の内容に共産党、自民党その他野党はきびしい評価をしている。
 しかし50分間、すべて理解可能な日本語で彼は語った。政治家としての評価は必ずしもこのこととは別なのだろう。むしろ一般人に理解できるようなボキャブラリーで政治を述べては失格なのかもしれない。しかし宇宙人のくせに、鳩山由紀夫は自分に理解可能な言葉を使って50分間、理解可能なメッセージを発信し続けたのだ。マスメディアもこのことにふれていないのだが、これだけでももしかしたら鳩山由紀夫はけっこうたいした首相なのではないか。
 「アメリカが世界で2番目なんていやなんだよー」ってだだをこねて見せて拍手喝采のオバマの一般教書とアメリカ議会より、「世界中の命を守りたい」「生物の多様性を守りたい」「今までの成長ではだめなんだ」「ガンジーは労働無き富は悪だと言った」。これらは明らかに光を放っているでしょ。ママからの労働無き富もふまえて真面目に言っているんだから。
 少なくとも鳩山は真面目だった。「仕事も色々」とか「公約なんか守らなくてもたいしたことじゃない」っていってのけたバカとは違うとおもう。
 実はここのところの予算委員会、つぶさに見た(これも自分には椿事だが)。マスコミのヤジ批判や答弁拒否批判は全くでたらめである。自民党の質問が全くなっていない。亀井(きらいなんだけどね)が「そんなくだらないこと答えられるか」といったのは当然だ。中学校の生徒総会の給食委員会への質問だって最近はもっとマシだ。読売の「国会崩壊」記事には全くあきれた。崩壊しているのは自民党(特に丸山珠代)だ。ワイドショーの奴らも全く国会なんか見ていないのがよくわかる。だいたい新聞記事をテレヴィのニュース(娯楽番組だが)で読み上げて真実を報道しているかのように振る舞うのはもうやめろ。
 産経新聞に至っては首相への自民党のヤジは「意気盛ん」で「当意即妙」と褒めちぎっている。「マナー最悪」とはかいてあるが、これも褒めているつもりなんだろう。特に「元気で最後までうるさかった」のは武部と伊吹と村上だったそうだ。あきれたものだ。
 真面目な男にはヤジはふさわしくないのに。
 まだ書くことあるので続くかもしれない。
元気なヤジオヤジ達
000487.jpg000287.jpg000671.jpg
産経新聞選によるヤジ集
 首相が演壇に立ち、「いのちを守りたい…」と異例のフレーズから演説を始めると、自民党席からはいっせいにヤジが飛んだ。「税金払えよー」。
 その後も首相がひとこと言うたびに、「(日本が)国際社会から信頼され…」→「信頼されてない」
▽「教育と科学に大きな資源を振り向け…」→「日教組!」
▽「鳩山内閣における『成長』は従来型の規模の成長を意味しません」→「成長しろー」と応酬が続いた。首相が外国文化を受容してきた日本の特性に触れると、「宇宙人は入ってないぞ」とも。
 むすびで首相が再び「いのちを守りたい」と訴えると、「まず約束を守れ」「守りたいのは政治生命 じゃないか」と、最後までうるさかった。

新春コルトレーン2 Say it (over and over again ) [jazz]

調子に乗ってSay it である。
IMGP2667.jpg

Say it (over and over again)←試聴クリック

情景
 トレーンは手持ちのオットーリンクを全部壊してしまって途方に暮れていた。過ぎたるは及ばざるがごとし。もう一けずりでもっと抜けるという欲で、おびただしいトーンマスターの真鍮のくずの山を作りあげていたのだ。もっともルディ・ヴァン。ゲルダーはどんな音でもいつものトレーンの音にする自信はあったのだが、肝心のトレーンはやる気をなくしていた。苦し紛れにセルマーのラバーのマウスピースなども持ち出し、ライブでは使い始めていたようだ。もっとも我々にはすべていつものトレーンの音にしか聞こえないのだが。
 とにかくいつものレコーディングを勧めることは困難な状況にあったので、我々はBalladsの曲集の録音を提案した。彼は不本意ながら乗ってきた。彼の「アグレッシヴな演奏より安全運転が出来る」という目論見と合致したのだ。彼は(特に極東地域などでは)こちらの方が売り上げが見込めるなどとは夢にも思っていないのだろう。特に低音域に不安があったので、高音域を多用した別のアプローチで取り組むことにも納得していた。その結果、ロリンズで名高い”You don't know what love is”はかえって彼らしい曲作りとなった。しかしこのアルバムの録音は2年越しとなり、インパルスとの契約遂行のためにはまた別の録音を充てなければならないことになった。
1962年 ボブ・シール談(フィクション)

*リードがへたっていて音色もピッチも上ずっている。先週のをつけっぱなしにしていたのがよくなかった。イコライザーでハイ下がりにした。前回と同じ曲だと思う人がいるかもしれないが、まあほとんど同じである。

シアターX(カイ)『やみ夜』樋口一葉 [演劇]

100110-100114p.jpg
 シアターX(カイ)主催『やみ夜』(樋口一葉)を観た。その前にマイケル・ムーア監督の『キャピタリズム 踊るマネー』を観ていて、そして直前にハイチの地震があり、で実に複雑な心境で両国へと向かった。
 なにもハイチに地震が起こらなくてもいいではないか。これが不条理でなくてなんであろうか。アメリカのすぐ隣の最貧国。奴隷制度の末にアメリカにもフランスにもネグレクトされたやみ。この国ではゴミ捨て場(といっても国連軍のゴミ捨て場だが)に悪臭はないという。腐肉さえも子供達によって持ち去られてしまうからだという。アジアの子供達がゴミを拾うゴミ捨て場には悪臭が漂っているだけまだ裕福なのだそうだ。その国であんな地震が起こるとは。これでも神はいるというのか。
 マイケル・ムーアの映画では1%の富裕層がアメリカの95%の富を独占し、貧しい側の人口の95%の国民の財産を合わせたよりもその額は多いという資本主義の不条理を訴えていた。当然である。しかし、この国では「いつかおまえも大金持ち」という家庭の教育テーゼが刷り込みになってるという(ほんとかね)らしいからしょうがないのだろうか。資本主義というものの本質は確かに見えた。しかし米国では富裕層の出すゴミ(寄進)だけでも日本のホームレスよりいい食事にありつけるらしい。
 ということはグローバルな視点から見て、アメリカの富裕層というのは世界でいうところのアメリカ国家に他ならない。テロが起きても全く不思議ではない。アメリカンドリームはイスラム圏にとって全く意味を持たないし、それは絶望に他ならないのだから。
 さて前置きが長くなったが、シアターXの『やみ夜』。色々な仕掛けがおもしろかった。薄幸で美貌のうら若い女主人役が狂ったような明治文語を話す老女優であることや、じいやとばあやが比較的若い俳優でばあやが僕の好きな「お江戸でござる」のお重ちゃん(メイド服のようなものを着てた)だったりして。一葉のやみ夜が現代に直結していることも十分説得力があったので楽しめた。しかし前途のハイチの地震である。想念は別の所にも飛んでしまいがち。
 江戸の町にはゴミ一つ無く、貧しいながらも循環社会が確立し、平和で持続可能な生態系や消費システムが確立していたように見える(お江戸でござるで学んだのね)。しかし農村部には飢饉もあり、間引きや人身売買も横行していただろう。元禄とはいえ江戸のやみも隠しようのない事実だったのだ。そして一葉の明治維新以後の「やみ」。これは勃興した商人階級のもたらしたキャピタリズムの「やみ」である。武家屋敷が一切の権益を失った話は多い。山本有三『路傍の石』などもそうで、もと武士の跡目で没落した主人公の父親が「こいつが女だったら」と息子にいうセリフが実にせつない。
 「士農工商」という身分制度は、商人階級を最下層に据えて、キャピタリズムの弊害を巧みに防御する、ある意味健全な制度だったのではないかという仮説さえ思い浮かぶ。もちろん、現実には「下人」などという差別階級の存在も見過ごせないのだが。
 あまり演劇の感想にはなっていないのだが、この『やみ夜』、非常にタイムリーに多くのことを喚起された。
 ナビに引かれて両国参り、その沿道には吉原大門、見返り柳、回向院など一葉ゆかりの地所多くしてあはれなり。折しも蔵前にて大相撲の開催なれば幟など晴れやかなりしが、世の不条理に心憂きて、われ楽しまず。げに『やみ夜』の深きこと、明白な闇ほどその不条理さのきわまれる理なるべし。
 シアターX、あるご縁でその活動を知るところとなったのだが、非常に意欲的な小劇場として今後も活動を期待するところである。

ハイチに義援金を送ろう。日本ユニセフ、ハイチ義援金サイト
https://www2.unicef.or.jp/jcuApp/servlet/common.CommonControl?action=bokin&bokin_type=3&code=80522

お言葉 天皇マイルス論 [jazz]

uresiku.jpg
 最近人前で「うれしく思います」って言うのをよく耳にする。だいたいが若者で、中学校の生徒会長が集会で使っちゃたりする(教師はちゃんと指導しろ)。あとは新成人とかね。中年以上で使うのはよほどの人だと思うけど。町内の運動会でおばさんが言っちゃったりする。ていねいな言葉だと勘違いしているんだな。
 この「お言葉」は自分の判断を表明することが出来ない(または恐れ多くて頂けない)とされていた天皇のために宮内庁の役人が作文で使った言葉で、フツーの日本語じゃないのね。正しくは「うれしいです」とか「よかったです」とか「うれピー!!!」ってそう言えばよろしい。まあ皇室の言葉が流行すれば日本国としては本望かもしれないが。
本来不敬として右翼の攻撃対象になるんじゃないのか?。このことと外来(しかも北米だぞ)侵略生物のブラックバスに対して右翼諸君が比較的寛大、いな友好的であることが私は実に不思議である。
 このように戦後、非常に発言を制限され、無味乾燥なお言葉を述べさせられ続けてきた天皇陛下(このばあい昭和、裕仁氏)であるが、もともと言葉や歌(詞)と祭祀によるまつりごとを生業とされてきた方々である。この方々の言語感覚は極めて正確、鋭敏である。予期せぬインタビューなどでは本領を発揮し最高のアドリブを繰り出す。
 もっとも印象に残っているのは記者に自分の戦争責任を問われたときの答えだ。「文学の方面にはくわしくないのでお答えしかねる」と言う意味のことを言われた。この言葉は重い。「文学」という発言が即ち真実や真理、絶対善を意味する事はこの方にとっては自明であったろう。この言葉を翻訳すれば「私はクロでしたけど、戦後それなりにがんばっている」である。もし「そのような政治的判断はしかねる」と答えられたなら「わたしゃ政治利用されただけだ」という意味になっただろうが・・・。実は殉死者が出てもおかしくはない発言だったのである。もっとも当時自分は若造で「何を生ぬるいことを言って」などと思っていたのだが。昭和を生きることで私の文学力も高まったのだ。
 それから印象深いお言葉がもう一つ。お供の者が「雑草」という言葉を使ったとき言われた、「雑草という名前の植物はございません」という発言である。これは牧野富太郎も感動したと思うのだが。人間宣言をしてから幾年月、ついに民草のまえで基本的人権と主権在民を肉声で叫ばれた瞬間ではなかったろうか。 
 コルトレーンは公爵(デューク)に「なぜ練習したことしか演奏しないのか」といわれた。天皇のアドリブはそれに比べればマイルスのワンフレーズに匹敵する。マイルスはジャズの帝王と呼ばれた男であるが、実は天皇はマイルスだったのである。
 民主党に対して天皇陛下を政治利用しているという批判を自民党はよくするようになった。いままで天皇に何も言わせないことで散々政治利用してきたくせに。
 自民党の教育の御用何たら委員になった将棋指し(内弟子の女流棋士と不倫していた)が園遊会で「日本中の学校において国旗を掲げ国歌を斉唱させることが、私の仕事でございます」と得意そうにいったとき「強制はよくないでしょう」という意味のことを現天皇は仰った。いまだにその将棋指しが恥じて自死しないのが不思議である。
 今回は結論はないよ。古文で決まっている最上級の丁寧、謙譲、尊敬語は使用していないがあしからず。
nice!(1)  コメント(2) 

新春コルトレーン My one and only love [sax]

謹賀新年
P1000115.jpg
たいしておめでたくないさ。
でも年末にトーンマスターを山中良之氏に修正してもらって気をよくした。そんではじめのセッションでMy one and only love をジョニー・ハートマンのキーでやった。パワーを入れすぎるとサチってしまうけどプレスティッジのトレーンの音がしてませんかあ。

My one and only love←クリック試聴

情景
 ジョニー・ハートマンのホテルに電話をすると彼はまだいた、が暴君は酔ってはいないようだった。今日はジミーは早く着いたのでトレーンはヴォーカル抜きでリハーサルを始めるつもりのようだ。マッコイもジミーもいつもと違うキーなのですこし不平気味だったがトレーンはさっさと始めたのでルディはあわててテープを回した。トレーンはようやく気に入ったオットーリンクを手に入れたようだ。ルディは今日は初めて使う日本製のマイクをトレーンのベルに近接させて録ってみようと企んでいた。エルヴィンはいつものようにタムのチューニングに余念がなかった。
1963年3月7日 ルディ・ヴァン・ゲルダー スタジオにて ボブ・シール談
(これはフィクション)

データ
テナーはM6 リードはリコの3
録音はPCM-50D 44kで欲張らないで録ってもいい音してる。
Logicでリバーブ14dbとちょっとイコライジングしてiTuneへバウンス。
めでたし。


血まつり [poem]

chimaturi.jpg
普段使いたくない言葉だし、聞きたもくない。でも最近この人が妙に使うのでいやになっているんだけれど。
200px-Sadakazu_tanigaki-02.jpgWikipedeiaより
 自民党の言語感覚というのは異常になっているのか。それとも自分の感覚が世の中に追いついていないのだろうか。
 八ッ場ダムの建設中止の批判で必ずつかうんですね「血まつり」。ダムを山奥の谷に造る方が圧倒的に血まつりという感覚に近い。建設をやめても利権で経済的に困窮する土建屋や補償金を老後のあてにしていた人とかが困るかもしれないが血は見ないと思うのだよね。建設中止の補償は当然行われるのだから個人的損失は心配ないと思うけど。
 これを血まつりというなら、自民党がこれまで与党としてやってきた沖縄や池子の基地問題や高速建設、それから「成田」はなんだったのか。これこそ「血まつり」でしょう。
 小役人面とかそういうことを言うのはやめよう。この人こそ自民党の野党転落の谷間にあてがわれた久々の血まつり総裁として自覚しているのかもしれないし。中国に行って買春したという報道は真偽はともかく「血まつり」だったのだし。自分で自転車で転んでけがしたときにテレビで血まつりって言って、それはお笑いにはなるけどさ。
 民主党の危うさはそりゃあります。叩くときは叩かなきゃとは思うけど、こんなこと言っているようじゃ当分自民党の出番はないよ。選挙の時の不評だったネガティブキャンペーンをいまだにやっているようだ。
 とにかくダムを造らなくてすむようになったことを血まつりというのだけはやめろよ。詩的じゃない。『もののけ姫』でも観て勉強しろ。

障害者の害は害虫の害か 詩人に訊け! [poem]

障害者.jpg  
 障害者ではなく障碍者と書くべきだという主張を読んだ。実際、漢字使用外国圏ではそういう事が進んでいるということも書いてあった。理由は障害者の害は害虫の害の字と同じだからなのだそうだ。そういえば運動会の障害物競走という名称もよくないなんて言う人もいた。「碍」という字はなんだか懐かしい。昔、電柱の上についていた絶縁陶器を碍子といっており、当然のように周りの大人は使っていたが、碍という字の意味はわからなかった。広辞苑によれば「碍」とは妨げる物という意味があり、やはり絶縁体の意味で使っていたようだ。しかし障害者の害って害虫と同じ字だが、害虫というような意味まで包含しているだろうか。ましてや障害者が社会の害虫だというような意識を持っている人などいるのだろうか。そういう人がいるとしたら、それはその人の感覚に問題があると思わざるを得ない。もっとも障害を持つ人がそう感じているならば、話はもう少し複雑になるけれども。
 むしろ障害者という意味をあえて冷静に考えるなら、ふつう(筆者はこう思う)は、「社会の構造が人間へ顕在、潜在的に害をあたえる要素を持っていて、その被害を比較的被りやすい人」という意味だと思うのだが。
 またはこの言葉をはじめて学習し、知った子供が先入観としてそういうニュアンスをうけやすいとでもいうのだろうか。そんなことはあるまい。そう考えるとしたらそれは子供のことを知らなすぎる。子供の言語感覚はかなり白紙に近いものだ。害という言葉が自動的に差別を助長すると思う人は、人の生得の残酷さや愛を、子供の無垢な残酷さや愛を知らないのだ。彼らは異質な物を(残念ながら)恐れ、排除しようとする事が多い(本能か社会的刷り込みか)。そしてそれを反省し克服する可能性も持っている。害という意味を短絡的に害虫の意味に結びつけ、問題だと感じる人は、それを乗り越えていく人間の可能性にも盲いている可能性がある。
 世の中に差別語が増えていて、新しい言葉を作るということが多くなっている。精神分裂病が統合失調症という言葉におきかえられたようであるが、統合というものを失調するという意味はすごくネガティブなのではないだろうか。この言葉も早晩差別的だということになるのは目に見えている。言葉が差別的なのではなく、社会に差別がある限り言葉は差別を内部に増殖していく運命にあるのだ。
 メクラという言葉がダメということになり(おかげで勝新の『座頭市』なんか全然テレヴィでやらなくなった)目の不自由な人なんて言っていたことがあった。この「不自由」なんていう言葉はネガティブそのものではないか。自由を否定しているのだから。「自由にあらずんば死を」というのはハリウッド的なバカヤンキーがむかし唱えていた主張であり、今も国民皆保険に反対しているアメリカ保守主義者どもはこう思っているにちがいない。メクラを社会主義者や共産主義者と一緒くたにしたらメクラに失礼というものだろう。(この言い回しの場合、どっちをより貶めているのかわからなくなっちゃったぞ。)自分も働いていたとき「先生」といわれて蔑まれていたことがあった(とくにジャズ関係者に)。親や子供に教師を蔑むようにし向けたのは明らかに戦後の政権(特に自公連立政権)や文部省以下教育委員会だ。言葉なんて「先生と呼ばれるほどのバカじゃなし」ということばがいみじくも示すように社会が意味を与えるものなのだ。
 だいたい病気の名前はネガティブである。風邪の「邪」なんて邪悪そのものだ。しかし風邪をひいた者が差別されないのは予後が順調と見込まれるからなのだろう。しかし「癌」という現代に於いてもいまだ深刻な病名に対し、反社会的な行為者を「社会の癌だ」なんて表現する者が(為政者に多いと思うが)いるというのは、思いやるべき癌患者に対して絶望的な事実ではないか。
 少し前になるが男性器には親しみやすい俗称があるけれども、女性器にはそれに相当するものが無く、旧来の名称が陰湿で性教育でも使いにくいというので、ある女性教育学者が(どう見ても言語感覚やセンスが不自由な人に思えたが)「オパンポン」と呼びましょうと提案したことがあった。こんな文字通り語感的に噴飯ものの名称が定着しなくてよかったが、女性に対する差別と性行為にたいする後ろめたさがある以上、オパンポンも隠微で差別的になっていかざるをえないのだ。オパ●ポ●。バカである。
 くどいが、精神疾患を持つ人を、たとえば「幸福者」と名付けたところで結果は同じなのだ。痴呆症が認知症になったって同じこと。そこで結論だが、言葉に反映してしまう差別意識が無くなるためには社会と個人の成熟を待つしかないのだ。それを果たすのが文学(この場合文学には科学も含まれている)の仕事だろう。小役人ごとき者が小手先で言葉(の文化)をいじるなんてことは無用だ。もしこのことを扱うとすれば、適任なのは言葉を扱うことを生業とする「詩人」という職業の人しかいないだろう。できたらカタワでメクラまたはチンバまたはツンボまたはハゲの詩人に訊くべきだとおもうのである。
(あえて現在差別的とされている言葉を使用したのは言うまでもない。それから私は比較的に社会主義者や共産主義者のシンパなのだ)
nice!(0)  コメント(1) 

Swingin Coconuts live at Someday スウィンギン・ココナッツ ライブ アット サムディ  [jazz]

ココナッツが単独ライブをやった。
Scan 11.jpg
photo by Yoichi Amakawa
136人入ったそうな(サムディ発表)。6人立ってたのかあ?演奏している方は充分おもしろかったのだが、後で演奏を聴いてみたらそれはもう冷や汗もので、空調の悪さもあり、さぞや満場の一般客ならびに家族、友人、愛人、部下どもは迷惑だったことだろうなあ。でも音も上げちゃうぞ。あと映像も上げられちゃう時代だかんな。
曲名をクリックすると私にあまり責任のない曲の場合、聴けるかもしれません。

1st set
LAZY BIRD
CENTRAL PARK WEST
DECOUPAGE
GUMBO STREET
DOLPHIN DANCE
SISTER SADIE
MAIDS OF CADIZ
MANTECA

2nd set
DIRECTIONS
SOUL INTRO~THE CHICKEN
THREE VIEWS OF A SECRET
MR.FONEBONE
LIBERTY CITY
HAPPY BIRTHDAY FOR Mr.H (51)
ELEGANT PEOPLE
BLACK MARKET

ちらしA5-b.jpg

おさらい会 [flute]

今年もやってきましたおさらい会。もう楽器のせいにも、仕事のせいにも、自公連立政権のせいにもできないという所まで自分を追い込んでのP・タファネル『アンダンテパスとラールとスケルツェッティーノ』だったのだが・・・。やり直しがきかないという状況で勝負できるのがプロなのだね。まあ聴いてやってください。
http://homepage.mac.com/herosia2/music/andantepastral.mp3

文化について [poem]

Scan 5.jpg
 文化の日で祭日であったということもようやく昼頃ぼんやりと思い当たるというようなこの頃である。
「文化」というこのあまりに一般的な言葉には、それでも若い頃から触発される日々をおくってきたと思っている。上の本は坂崎乙郎氏の『絵とは何か』であるが、子供といってもよいほどに若い頃、氏の『イメージの狩人』という本に出会ったのは偶然であろうか。今は手元になく、誰か友人の所に行きっぱなしになっている。「こんなに絵を深読みしてもいいの?、というよりこれは創作じゃない!」というのがそのときの衝撃的感想だったのだが、内容は非常にきびしく難解な美術論文である。実際、この本が人の生き方と文化や文明について深く考えるようになったきっかけではないかと自分には思える。
 今の自分の現実は、厳しさとは対極の「音楽を演奏したり、聴いたり」というようなゆるい日々ではあるが、いま町へ出たり(ほとんど無いが)テレヴィなどを見てみると、人生をなめているというか、人としての「核」がないような、そんな文化の廃れた様子を感じてしまうのは自分も年を取り老人病にかかっただけなのだろうか。
 上記の『絵とは何か』で坂崎氏は、A・カミュが「自分にとって書くということは自分が自分の自由の立場を守るということで、国家の褒賞であろうとも受けてはならない」といっていることを紹介し、たとえばドゴール大統領が自分に「キジ」を送ってきたとき、受け取った奥さんを烈火のごとくに怒ったなんていうエピソードを紹介している。また坂崎氏は、日本で本当の芸術が育つためには天皇制というものが一番の問題で、そのためには教育界からなにから全部改革しなければならない。それは21世紀になっても当分実現しないだろうという事も書いている。そしてこの11月3日のことを日本人のあらゆる人が賞をもらう日で、極端な話、おまんじゅうを作り続けるのは国家のためになってしまっていることを(日本人は)誰も不思議に思っていない事になってしまうと書いている。その段落の最後を抜き書きさせてもらうと・・・
「けれどもこの考えも、いま1976年という時点で、おそらく変わっていくだろうと私は思っています。40歳以上の人は信用できないけれど、これからの若い世代は、こういう図式を信じないでしょう」。と書いている。
 この9年後、1985年に彼は世を去っている。その間何を感じたことだろう。
 今日、テレヴィを見ていたら川端康成の映像が映っていて、隣に三島由紀夫もいて、初めて見るものだったので思わず身を乗り出してしまったのだが、ノーベル賞をもらった彼は三島ともども俗物そのものだった。
 サルトルはノーベル賞を拒否したが、先に書いたカミュは確か1950年代にさっさともらっている。どうも今、カミュの方が少しは読み継がれているという点で歩がありそうだ。
 サルトルをその目標とも据えていた大江健三郎は『新しい人よ・・』のあたりを境につまらなくなり、文化勲章は辞退したものの、欲しかったノーベル賞をもらってからはやることなすこと堕落としか言いようがない。
 もっとも皇室に関しては良くも悪くも日本の象徴としてある意味好感さえ持つ今日この頃であります。一方の受賞者達には「文化勲章なんて棚からマグロ!」なんていうコメントのしようがないようなことを言うお調子者(中島某)もいて、「地上の星」たちも案外自分のしたいことをして、「くれるものはもらっておこう」的な考えなのだろうとはおもうが。
 もともと『絵とは何か』という本はゴッホの人生について多くのページが割かれているのだが、ゴッホの人生が真実の人生だったらそれはつらいものだ。もっとも我々凡百には無理だが。
 坂崎先生、40歳以下の人々もちゃっかりジョン・レノン達が女王陛下に勲章をもらっているのを知っている世代なんですよ。
 そして、性急な結論だが、どうも文化は確実に滅びる方向へと世界は向かっているらしい、と一気に確信してしまう今年の文化の日も、いま終わろうとしている。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。